大魔女リグレア

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………どれだけ望んでも、想っても、手に入らないものがある。 セインと姫君の婚姻が発表されてから、もう一カ月が過ぎた。リグレアは王宮の片隅にある塔に籠もり、机の上に置かれた古びた一冊の本を眺めていた。勿論式典には参加などしてはいない。風の噂に聞けば、どうやら姫君は懐妊しているらしいとのこと。そうだ、あの姫と、セインとの、子。 リグレアは唇を噛みしめた。 生まれた時からずっとそばにいた。ずっとそばにいて、家族同然に育ってきた。 愛していた。愛していた愛していた愛していた愛していた。 彼を心の底から、愛していた。 王宮魔導師の誘いがきた時とて、リグレアは断るつもりだった。そんなものになるくらいなら、セインの傍にいたほうがいいと思ったから。でもセインは背中を後押ししてくれた。自分もすぐに騎士団に入る。だから待っていて欲しいと、そう言ってくれた。だから王宮魔導師になることを決めたのだ。そして数年後、約束通りセインは騎士としてリグレアの元に現われた。死ぬほど嬉しかった。 国がどうなろうが、リグレアには関係なかった。国が滅ぼうが姫が死のうが何千、何万の兵士が死のうが、そんなことはどうでもよかった。彼さえ、生きていてくれれば良かった。だから彼が戦場に行く時はいつだって遠隔魔法を使った。彼の実力があれば、わたしの助けなど必要ないとも分かっていたけれど、いくら不要だと言われても、わたしが、彼を守りたかったから。一番近くにいて、一番彼を想っていたし、誰よりも彼を理解しているつもりだった。 …でも違ったのだ。彼はリグレアを選ばなかった。 あの、花のような、姫君のもとに行ったのだ。 「………なぜ、」 なぜ、わたしではなくあの女なの。 ドス黒いような感情が胸の奥に湧き上がる。 溢れだしたそれは着実に彼女の心を、精神を蝕んでいった。 なぜ、私ではだめだったの。 ずっと近くにいたのに。わたしのほうが想っていたのに。ずっと。ずっとずっと。 手元にある本をソッと指でなぞる。愛しい貴方のくれた、この本を大切にしてきたのだ。 長い間ずっとセインのためだけに生きてきた。 でもそのセインは、もう二度と、自分の手には入らない。もう、二度と。 「なんで…!」 思わず手にしていた魔道書のページをめちゃくちゃにちぎる。 なぜ、なぜ、なぜ!!! 分厚く重たいその本を持ちあげ、床に思い切りたたきつける。机の上に積み重なる本も、全て、力いっぱい叩きつけた。魔法があるからなんだ。千年に一度の天才だからなんだ。ただ一人、好いた男ですら手に入れることすらできない、哀れな魔女。自分が周囲から敬意の中にある畏怖の目で見られていたことも知っていた。だがそれでも良かったのだ。彼がいてくれるならば。他愛のない話を、隣で出来たのならそれだけで。なのに、たったそれだけの、小さな願いでさえこの世界は。 引き千切られたページが静まり返った室内に虚しく散乱していく。リグレアは荒だった肩で息をしながら黙っていたが、やがて力なくその場に崩れ落ちた。 「……もう、手に入らないのならば、」 リグレアは嗚咽交りに小さく呟くと、床に爪が食い込むほど強く強く、その両手に力を込めた。美しい赤色の瞳に、狂気の炎が灯った、その瞬間だった。 *** その翌日から、リグレアは王宮から忽然と姿を消してしまった。 必死の捜索もむなしく、彼女はまるで煙のようにいなくなってしまったのである。その代わりに、その日を境に奇妙な噂が流れるようになる。東の森で、若い女が次々と殺され、無残な姿で発見される事件が多発したのである。犯人が誰なのかはてんで分からず、地元の自警団も警戒に当たっていたのだが、ついにはその自警団の男たちにまで手が及び始め、王国は騎士団を派遣することとした。 「それにしても…いったい何者なんでしょうか」 馬に跨り東の森に向かっている最中、ジャンは眉をひそめて呟いた。 「誰も犯人を見たことがないんですよね?しかも…死体はどれも無残なものばかり。まるで原形をとどめていないというじゃないですか」 「…そう、らしいな」 「外傷だけじゃなくて、かなりひどいらしいですよ。どうやらもぐちゃぐちゃにされてるって話です」 ジャンの言葉にもセインはあいまいな返事を返すことしか出来なかった。犯人の姿は分からない。ただ、それは正気の沙汰とは思えない。職業柄、多くの戦場で遺体にも直面してきたつもりだ。だがこれは常識を逸脱している。人体そのものを崩壊させるとでもいうかのような犯行。そしてその犯人のことを考えるたびに、どうしても、脳裏に浮かんでしまう人物がいるのだ。そんなことあるはずがないと思っている。そう思いたい。ただ、胸の中に不安ながこみ上げてくるのも事実だった。己の不安を振り払うように、セインは頭を振って先を急いだ。 東の森。好き勝手に伸びきった木々が空を覆い尽くし、じめじめと湿った地面はぬかるむ。時折吹きわたる生温かい風には嫌でも不快感を感じてしまう。そして、森の奥に、それはあった。 「これは…小屋か…?」 そこにあったのは古びた小さな小屋だった。かなり古いものなのだろう、すっかり老朽化しきっているし、蔦がそこらじゅうにびっしりと張り巡らされている。セインたちは馬から降りると警戒しながら小屋へと近づいていく。しかしその途中でジャンが声をあげた。 「うっ…」 「なんだこの匂いは…」 皆が口々に呟いて鼻を覆い始める。それは、強力な悪臭であった。何かが腐ったかのような、鼻の奥を突く異臭。思わずセインも顔をしかめた。だがここまで来て悪臭を理由に引き返すわけにはいかない。きっとここになんらかの手掛かりがあるに違いない。いつでも戦闘に入れるよう、剣を抜く。慎重に、ドアノブに手をかけ―…そして、そのドアを開いた。 「………な、ん…だ…これ、は…」 そこにあったものは。 ものであった。人体からはぎ取った皮、毛髪、眼球、そして臓物。ビンに入れられたものもあれば、そのまま机や棚に置かれたものもある。机から垂れ下がっている細長いそれは、おそらくは人間の小腸だったものであろう。机の上は勿論、床中も赤黒く固まった血がこびり付いている。目にした全てが事実、だった。 「う…ぉぇっ…!」 悪臭、なんてものじゃない。ジャンは耐えきれず小屋の外に飛び出し、嘔吐を繰り返した。他の者もそうだった。だがセインは悪臭に必死に耐えながら、小屋の中へと足を踏み入れて行く。そして、その一番奥。椅子の上に置かれた一冊の本を見て、セインは目を見開いた。と、丁度その時である。 「団長!申し上げます…!団長方がご不在の間、王都に何者かが侵入、姫様が―…!!!」 セインは必死に馬を走らせた。早馬の知らせを受け取ったのは、あの小屋に入ってすぐのことだった。結局あの小屋の中には犯人の姿はなかった。しかし、あの本を見つけた。あの本は。あの本を、忘れるはずもなかった。セインは唇を噛みしめる。なぜ…なぜ、こんなことに。 城に辿りついた頃には夕暮れになっていた。 姫は、すでに事切れていた。遺体を見て、セインは崩れ落ちた。見るも無残な、その姿に。美しい顔は激しい火傷で判別が出来ないほどになり、毛髪は全て引き千切られ、美しかった爪もはがされ―…そして、お腹の子も。深くえぐられ、何がなんだったのか分からないほどめちゃくちゃに。 嗚咽がこぼれる。視界が歪んで見えない。 なんでこんなことに。なんでこんな。 「……………なぜ、君が」 どれほどの時間そうしていただろうか。ふと、うつむいたままセインがポツリと呟いた。うつむいているため表情こそ見えないものの、その声はやけに落ち着いているように感じる。確信だった。彼女を手に掛けたのは、まぎれもない。 「なぜなんだリグレア…」 それが、リグレアその人だと。セインは顔をあげると遺体にそっと布をかけ、踵を返してその場を立ち去った。その手には、あの本が握られている。彼の瞳にもまた、確かな炎が灯っているようだった。
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