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「火種が足りんぞ!もっとまわせ!」
「敵軍の動きを少しでも抑えるんだ!」
「駄目です、もうこれ以上は不可能です…!」
馬蹄の音。荒野が砂埃で見えない。
ここからの距離はかなりあるが、それでも聞こえてくる激しい攻防の音。
青年は金色の髪を揺らして馬上からその様子をじっと眺めていた。
年はまだ20代前半ほどの、若き青年だ。しかしその眼光に灯る意志の強さは、他を寄せ付けない力強さがあった。セイン・アストライト。デアダント王族直轄の騎士団の団長を務める彼は、この軍勢を退けるために進軍していたところである。しかし戦況の不利は一目瞭然。敵兵一万に対し、こちらはわずか二千弱。戦力差は、あまりにも歴然なのである。
そこへ、偵察に向かっていた彼の部下ジャンがやってきた。
「団長、前線部隊はもう限界です…!一体どうなさるのですか?このままでは我が軍の敗北は確実とも言えます!」
額からは脂汗が滲みでていた。勿論、必死な彼の言葉の意味も、そして重みも、青年は重々承知しているつもりだった。しかしその問いかけに答えることなく、ただ黙って瞳を閉じた。端正な顔立ちに、長い睫毛。ここが戦場でなければ、周りの人間が感嘆の溜息を漏らしてしまいそうなほどに美しいその顔立ちをした青年は、瞼を閉じたまま一向に言葉を発しようとはしなかった。
「ッ、聞いておられるのですか、団長!!」
先にしびれをきらしているのはジャンのほうだ。思わず声を荒げる。しかし叫ぶ彼の声をよそに、静かにスッと右手を差し出して制した。前線の部隊が苦戦しているのはセインにも分かっている。このままの勢いで進軍されたてはこちらの本陣まで攻め入られるような、そんな破竹の勢いがある。分かっているのだ。だが、今ここで引いてしまえば自国は数日で攻め入られ、敵国の占領地となってしまうだろう。引くわけにはいかなかった。
たとえこの身が朽ち果てようとも。
それに―。セインは僅かに口の端を釣り上げた。
「…案ずるな。我々の敗北はないよ」
「え?」
「何せ我らには偉大な、勝利の女神がついているのだから」
彼の呟いた声に、ジャンが眉根を寄せる。その意味が分からず、問い直そうとするよりも早い。刹那-…激しい閃光と爆音。進軍を進める敵陣の後方…つまりは、敵軍の本陣が爆風に包まれたのだ。轟音を立てて凄まじい土煙があがり、一瞬のうちに目の前が砂塵で見えなくなる。そしてしばらくの後、自身の目の前に広がる光景に、ジャンは目を丸くした。
「え……、え!?」
何事が起きたのかと事態を飲み込めていないジャンに、セインは口元をほころばせ、頭上を見上げた。
「え、な…こ…れは…一体…?」
ジャンは、大いにうろたえた。先程まで、敵軍がこれでもかと言わんばかりに闊歩していたというのに、今はどうだ。ただただ、荒野の風が吹きわたるだけなのである。何が起こったのかと、男はあたりを見回す。自軍の兵士たちでさえ、ジャンと同様に自体の状況がつかめていないのか、きょろきょろとあたりを見回すばかりである。
「だ、団長…これは…」
ジャンが問うと、セインは土煙で少し汚れた顔を綻ばせた。
『はぁ、まったく―…わたしの遠隔魔法がなかったら、一体どうなっていたと思っているのかしら』
頭上から聞こえてきた「声」。若く、可憐な、女の声だ。魔性染みた、聞くだけで油断すれば心ごと持って行かれそうになるほど、麗しい「声」。
『貴方はいつもそうよね。それとも一度死んでみないと分からないのかしら』
「はは、手厳しい。…でも、本当にその通りだよ。感謝するよ、リグレア」
姿見えぬ声と会話をしているセインは、苦笑い気味に頭をかいた。驚く皆をよそに、セインは呆気にとられるジャンや部下たちを向き直り、顔をほころばせた。
「我が軍の勝利だ。偉大なるに大魔女に感謝を。……さぁみんな、帰ろう」
敵軍一万に対し、自軍二千弱。
圧倒的戦力差がありながら、この日、デアダントは歴史的な勝利を収めた。
偉大なる、魔女の力で。
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