第九話 おじさんにゾッコンなんです

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 あれからまだ数日だが、辰美からはなんの連絡もない。  仕事をしているから忙しいのだろうと思って安易に考えていたが、そもそも、付き合うことの価値観は年齢によって違う。自分たちは十八も離れているのだから、恐らく想像以上に違うはずだ。  そう思うと途端に不安が湧いてきた。楽しんでいたのは自分だけで、辰美が釣った魚に餌をやらないタイプだったら────。  しょぼんとしながら片付けをしていた時だった。美夜のスマホが震えた。  美夜は気にも留めなかった。それより辰美が帰ってしまったことがショックで、それどころではなかった。  片付けを終えてピアノを背負った。ようやくスマホを確認した。  通知を見た瞬間、美夜は目を見開いた。 「え!?」  人目も憚らず声をあげてしまう。メッセージは辰美からだった。 『お疲れ様です。今日の演奏もとても素敵でした。声をかけようと思ったのですが、ファンの方もいるのでやめておきました。遅いので気をつけて帰ってください』  なんてことだろう。こんなことならもっと早くにメッセージを見ておけば良かった。  なんだか不安に駆られて辰美に電話を掛けた。一コール、二コール、三コール……。電車の中にいるのか、それとももう帰ったのか。なかなか電話は繋がらない。  しばらく鳴って、もう切ろうかと思った時だった。ようやくコール音が途切れた。 『もしもし、日向です』  スピーカーの向こうから辰美の声が聞こえた。思っていたより穏やかな声で、美夜はほっとした。 「あ、あの。美夜です。すみません、突然……」  なんて言おう。言葉が出てこない。なんとなく確かめたくてつい電話を掛けてしまったが、考えてたくない事実に近づいてしまったら。そう思うと怖い。 『悪いね。ちょうど電車に乗っていて出るのが遅くなってしまったんだ。美夜さんは……もう帰ってるのか?』  電話の向こうからホームの音が聞こえる。わざわざ途中下車したらしい。 「はい。あの……ごめんなさい。突然電話して。話せなかったので、その……」 『いや、俺もごめん。最初は話すつもりで行ったんだけど、なんだか普通に振る舞える自信がなくて……ファンの人達に知られるとまずいだろう? 黙って帰って済まなかった』  辰美はなんだか気まずそうに言った。  思いがけないセリフだ。あの辰美から聞けたと思うと、より意外性が増す。辰美でもそんなふうに思うことがあるのだ。いつも落ち着いていて穏やかだから、恋愛をしても変わらないのだと思っていた。  けれど嬉しい誤算だ。そして、自分の考えの至らなさに呆れた。  辰美は自分のことを心配してくれているのに、自分ときたら疑うようなことばかり考えていた。辰美相手だと自分が余計に子供っぽく思えてしまう。 「私こそすみませんでした。顔が見れただけでも嬉しいです。疲れてるのに来てくださってありがとうございます」 『美夜さん、週末……日曜は何か予定ある?』  瞬間的に察した。これはデートの誘いだ。美夜は考える前に答えた。 「ないです。空いてます」 『そうか。じゃあもし良かったら、どこか出掛けないか』 「はい。是非」 『どこか行きたい所はある?』  付き合って初めてのデートだ。どこがいいだろうか。辰美のことはあまり知らない。離婚したこと、趣味もうっすら知っている程度だ。それなら────。 「辰美さんの家に行ってみたいです」 『え? 家?』 「はい」  ひょっとして、まだ踏み込まれたくなかっただろうか。何回かデートしてからの方がよかっただろうか。深い意味はない。ただ、辰美のことを知りたいだけだ。  無難に映画や買い物と答えておけばよかっただろうか。辰美はなんだか戸惑っている様子だ。 『俺の家なんて何もないよ。普通のマンションだし……』 「あの、ご迷惑だったらいいんです。ただちょっと、辰美さんのことが知りたかっただけというか……」  少しの間無言になった後、辰美は「分かった」と答えた。 『おもてなしできるようなものはないけど、それでもよかったら』 「いえ……なんだか無理を言ったみたいでごめんなさい」 『いや、来てくれて嬉しいよ。じゃあ、また連絡する』 「はい。おやすみなさい」  通話が切れた途端、顔のニヤケが止まらなくなる。さっきまでの薄暗い気持ちはどこかへ消えていた。  辰美が自分から誘ってくれたことが嬉しいかった。告白もデートも自分から言い出したことだから、心のどこかで辰美を疑っていたのかもしれない。押し切ってしまったから付き合っただけなのではないか、と。  これからはもう少し落ち着いた行動をしよう。でないと誠実な辰美に失礼だ。
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