第十一話 嵐の予感

1/5
前へ
/104ページ
次へ

第十一話 嵐の予感

「ありがとうございました。ごゆっくりお過ごしください」  釣り銭を渡しながら美夜はニンマリと微笑んだ。少々笑いすぎたと思いながらも、緩む口元を抑えられない。 「どうしたの? そんなにニヤニヤして」  不思議そうに詩音が言った。 「まあ、ちょっと……」 「あ、もしかしてこの間言ってた歳上彼氏?」  大当たりだ。美夜は一層笑みを浮かべた。  結局、辰美とは何もなかった。いや、何もなかったわけではないが、美夜にとっては十分素敵なことがあった。  あれ以来、美夜は辰美に要求しすぎることをやめた。当たり前に思っていたことも、相手のことを考えなければならないのだと知った。  辰美のことが大事なら待つべきだ。彼の中の傷が癒えるように新しい思い出を作ろうと決めた。 「実は、彼の家に泊まりまして」 「えっマジで。どうだった?」 「優しかったよ」  それは別に、そういう行為のことではない。辰美の行動が、と言う意味だ。家の外と中で態度が変わる男性もいるというが、やっぱり辰美は優しい人だった。  いつも気遣ってくれて、穏やかで優しい。たまには気が強いところも見てみたい気がするが────。  詩音はどうやら誤解したらしい。感心しているんだか困惑しているんだか分からない顔で頷いた。 「さすが歳上……熟年の技ってやつね」 「そういうんじゃ────」  店の自動扉が開いた。美夜と詩音は瞬時に切り替え、扉の方に向かって挨拶をした。 「いらっしゃいませ」  だが、美夜は声を発したと同時に驚いた。自動扉から入ってきたのは辰美だった。 「た、辰美さん……!?」 「こんにちは」  辰美は驚く美夜をよそに爽やかな笑みを返す。  一体どういうことだろうか。店の場所は随分前に教えていたが、今日来るなんて聞いていない。今日来るならもっとちゃんと化粧をしたのに。  緊張してうまく言葉が出てこない。いつもならすらすら喋っているのに、辰美相手だからだろうか。 「え、えっと……何か、頼みますか」  ちょうどモーニングの時間帯だ。辰美は出勤前に寄ったのだろう。 「じゃあ……アイスラテと、これで」  ショーケースに置かれたサンドイッチを指さす。 「あのっ私奢りますから!」 「いいよ。突然来たし、俺の朝ごはんだから。今日も昼前まで?」 「はい……」 「そうか。あんまり無理しないように」  美夜はふと、視線を感じた。見れば詩音が穴が開きそうなほど辰美を見ている。その瞳は「おじさん」を見る目ではない。  辰美もその視線に気付いたのか、詩音に軽く会釈をした。 「こんにちは、日向です。美夜さんからいつも話を聞いてます」 「あっ、いえ! こちらこそいつもお世話になってます!」  詩音も緊張したのか声が裏返る。二人で気まずい顔をしながら顔を見合わせると、辰美はおかしそうにクスクス笑った。  美夜は慌てて袋の中にアイスラテとサンドイッチを詰めた。ピアノ以外はできない女だなんて思われたくない。既に思われているかもしれないが。 「ありがとう」 「あの……お仕事、頑張ってください」 「うん。君もね」  辰美は店から去った。自動扉が閉まるとともに、美夜はまた詩音と顔を見合わせ、口を開いた。 「イケメン!」 「でしょ!?」  どうやら、詩音はお気に召したらしい。元々辰美の容姿は悪くない。詩音の好きなアイドルほどでないにしろ、十分若く見えるし整った顔立ちをしている。気にいると分かっていた。 「あれは予想外だったわ……うん。あれは惚れる」  詩音はうんうん頷く。 「ね? 全然おじさんっぽくないでしょう?」 「四十代って言ってなかった?」 「四十二」 「あれで?」  美夜は誇らしかった。辰美が褒められると、なんだか嬉しい。辰美は自分のことをおじさんだと思っているが、本当はそんなことないのだ。 「いい感じの人だね。礼儀正しいし、あれなら全然オッケー」 「でしょう?」 「でも、美夜ちゃんデレデレしすぎ」 「詩音ちゃんだってしてたじゃない」 「だって突然だったもの。でもさ、あんな感じの人、ファンの中だと浮くんじゃない? 大丈夫?」  その「大丈夫?」はファンにバレないの? という意味だろう。確かに、あまり近づき過ぎると妙に思われるかもしれない。  だが辰美は距離に気を付けているようだし、物販の会話も短めだ。バレて問題になることはないように思う。 「あの人はともかく、今の美夜ちゃんだとファンが気付くと思うよ。格好いい彼氏ができて喜ぶのは分かるけど、ちょっと気を付けなよ」  刺されるよ。とサラリと恐ろしい言葉を吐く。美夜はごくりと息を飲み込んだ。  確かに、バレるとしたら自分からかもしれない。これからは気を付けなければ、辰美に迷惑をかけてしまうことになる。
/104ページ

最初のコメントを投稿しよう!

257人が本棚に入れています
本棚に追加