第29話 いつしか桜「無鄰菴」

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どうしてこんな気持ちになるんだろう。どうして瞳が潤むんだろう。 わたしは別に、教授に言われたから写真を撮っていたわけじゃない。始まりはたぶん茂庵だった。あの、吉田山の山頂で、一言も言葉を交わさずに過ごした時間。あの時共有したのは空気だけで、教授がどう思っていたのか、何を感じていたのかは知る由もない。だけど今ならなんとなく分かる。あの時、あの人は、あの空間そのものを味わっていたのだ。窓から見える新緑を、美しいと思っていたんだ。 だからわたしも、同じ気持ちを味わいたいと思った。いろいろな場所に行って、わたしの思い描く美しさを、切り取ろうと思った。正直、建物を撮るのは得意じゃない。お寺や神社なんて、今まで撮影したこともない。 どうやってこの歴史を写真におさめよう、どうしたら教授の期待に応えられるだろう。構図はどう? 絞りは? 露出は? 本当にこれでいい? これで期待に応えられる? 毎日頭を悩ませながら、シャッターを、切っていた。 ああ、そうか。こんなにも泣きそうになるのはきっと、教授の一言で、1年の頑張りが認められたような気がしたからだ。わたしの撮ってきた写真は、間違いなんかじゃなかったんだと、ようやくわたしは安心することができたんだ。それは単位を与えられることよりも、よい成績をもらえることよりも、ずっとずっと嬉しかった。 「……そんな素直に褒めるなんて、頭でも打ちましたか」 「君も言うようになったな……」 「嘘です。ありがとうございます」 照れ隠しに嫌味を言って、でも嬉しいからついでにお礼も言っちゃって。笑みがこぼれるのをとめられない。わたしはカメラを手に持って、勢いよく立ち上がった。 「わたし、写真を撮ってきますね」 「頑張らなくていいと言ったのに」 「教授に言われたから撮るんじゃありません。……わたしが撮りたいから、撮るんです」 わたしは今日も、シャッターを切らずにはいられない。素敵な景色が、京都が、目の前にあるのだから。教授は一瞬目を丸くして、それからあきれたように笑った。ばかだねぇ、と、いつものように優しくつぶやいて、自分も腰を浮かせ、わたしに続いて庭に降り立つ。そう、わたしたちはいつだって、これでいいのだ。
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