第2話 二人し居れば「恵文社」

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いつものようにぱらぱらと写真集をめくっていると、ふっと視界に影が落ちた。後ろから誰かがやってきて、わたしと同じように棚から写真集を取り出す。ちらり、と何気なく隣を見たわたしはぎょっとした。 眼鏡の隙間から見える憂いを帯びた瞳に、少し茶色がかった、やわらかそうな髪。そこにいたのは、いつも遠くから見ているだけの人――間崎教授だ。 一体なぜこんな場所にいるのだろう。休講になったのは、てっきり他の用事ができたからだと思っていたのに。あっけにとられてその横顔を見つめてみるけれど、教授が気づく気配はない。今手にした写真集を、ぱらりぱらりと、わたしと同じように眺めている。 どうしよう。適切な言葉を探す前に、口が開いてしまったわ。呼吸音だけ聞こえるのが恥ずかしくて、慌ててきゅっと唇を結ぶ。 茂庵で出会ったあと、何度も話しかけようとしたの。でも、講義が終わったら学生なんて見向きもしないで、風のように教室を出てしまうから、結局まだ、何も伝えられていないの。 「……間崎、教授」 こうして直接名前を呼ぶのもこれが初めて。だから、少しだけ声が震えてしまった。絶対に壊してはいけないガラス細工に触れる時のように、緊張が小さな胸を支配して、なぜだか怯えてしまったの。立場が上の人に話しかけるのって、やっぱりいくつになっても緊張する。 教授は写真集から顔を上げ、薄い色の瞳でわたしを捉えた。茂庵で出会った時のように、表情を変えることもなく、ああ、ともうん、とも言わず。まるで、わたしを無機物だとでも思っているような。そんな興味のなさそうな顔をして、すぐにまた視線を戻す。 「サボりですか」 「……サ、サボってるのは教授でしょう」 慌てて言い返すと、教授はおかしそうにふふっと笑った。なぁに、そのさりげない笑みは。今の今まで、わたしを素っ気ない瞳で見ていたくせに。途端に、角ばった空気がふんわりと丸っこくなる。 「あの、わたし、御坂です。御坂琴子。……先日は、ありがとうございました」 茂庵にてアイスティーをご馳走になったお礼を言うと、教授は「何のことでしょう」とすっとぼけた声を出した。そうやって忘れたふりをするのが、大人の余裕というやつかしら。男の人にしては細く長い指が、風の仕業を装うように、はらりとページをめくっていく。それ以上何か言うこともはばかられて、わたしも再び写真集を眺めることにした。 ああ、どうして。気まぐれに立ち寄っただけなのに、教授と出会ってしまったのだろう。一度目は向かい合って。そして今は、肩を並べて。講義以外で同じ時間を共有することになるなんて思ってもいなかった。 こんなに近かったら、呼吸をする音とか、心臓の音とか、全部筒抜けなんじゃないかしら。 そんなどうでもいい考えが頭の中を支配して、見ているはずの写真集は、なんだか全部同じ景色に見える。特別な関係ではないし、特別な感情を抱いているわけでもないけれど。「学生A」であるわたしが、こういう特殊な空間で肩を並べていたら、そりゃあ緊張だってする。だって、お互い顔は知っているけれど、話すのはこれが初めてなんですもの。 まったく内容が入ってこない写真集を棚に戻すと、いつからだろう、教授が、じぃっとわたしを見ていることに気がついた。……いいえ、わたしではない。わたしの首にぶら下がっているカメラを、興味深そうに見つめている。 「これは、えっと、カメラです」 「そのくらい、見れば分かります。あなたは写真を撮るんですか」 「はい。小学生の頃から、父の影響で……」 わたしはしどろもどろになって答えた。なんだか恥ずかしくって、目を見ていられない。それなのに教授は、全然質問をやめてくれる気配がない。 「そうですか。……どんな写真を?」 「風景が多いです。人はあまり撮りません。せっかく京都に越してきたので、これからは神社やお寺を撮るのもいいかなって」 「それはいいですね」 静けさに満ちた店内で、ないしょ話をするように、声を潜めて話す。茂庵で出会った時は、言葉を交わすどころか、目を合わすことさえしなかったのに。普段だってそう。教授は壇上で講義をし、わたしは少し離れた場所でそれを聞いている、それだけ。いつも、たったそれだけなのに。 「私も昔から京都を巡るのがすきでね。学生時代は圓光寺に毎日通ったり、暇さえあれば桜やもみじを見に足を伸ばしたりしていたんですよ。……まぁ、今もですけど」 「へぇーっ、そうなんですね」 饒舌に話す教授を見て、わたしも自然と笑みがこぼれた。講義の時と全然違う。まるで、すきなヒーローについて語っている少年みたいな表情だ。 「もしかして、今日もどこかに出かけるつもりだったとか」 冗談めかして聞いてみたら、教授はいたずらがバレた子供のように「正解です」と声を潜めた。 「今日は久しぶりに金福寺に行こうと思って。それで、ついでにここに寄ったんですよ」 「金福寺ってどこですか? 近いんですか?」 何気なく問いかけると、それまで穏やかだった教授の表情が一変した。信じられないというように目を見開いて、わたしの呆けた顔をまじまじと見つめる。 「……御坂さん、住まいはこの辺ですか?」 「はい、すぐそこのマンションです」 「京都に来てから、近くを散策したりとか……」 「それが、バタバタしていて全然できていなくて……。カメラを持って出かけるのも、今日が初めてなんです」 「……ずいぶん熱心に私の講義を聞いていると思っていたが、他にすることがなかったからか」 講義中の穏やかな物言いとはまったく違う、棘のある声だった。意味が分からなかったけれど、なんとなく、ばかにされているんだろうなと思った。教授はすっかり興味を失ったように、手元の写真集に視線を戻した。 「せっかく京都にいるのだから、いろいろなところを巡りなさい。でないとカメラがかわいそうだ」 「教授は、カメラがおすきなんですか」 「なぜ」 「写真集をご覧になっているから」 「……カメラは、苦手だ。設定とか、構図を考えるのが面倒でね。挑戦しようと思ったこともあったけど、結局手が出なかった」 「難しく考えているから撮れないんですよ、きっと」 言い返してやると、教授は機嫌を損ねたように、じろりとわたしを睨んだ。 ――おや、なんだか、何だろう。 この人、本当に間崎教授なのかしら。欠点を言い当てられた子供のような、そんな表情をするなんて。普段の教授からは考えられない。 ふしぎに思って、ああ、とすぐに納得した。わたしはこの人の、表面的な部分しか知らないのだ。講義中に見せる真剣な瞳とか、上品な微笑みとか、そういう、一部分しか知らなかったのだ。 「では、あなたはさぞかしすばらしい写真を撮るんだろうね」 「……まぁ、教授よりはうまく撮れると思います」 「金福寺も知らないのに?」 「じゃあ、連れていってくださいよ!」 売り言葉に買い言葉、半ば意地になってそう言ったら、教授は渋い顔をして、「いいだろう」とうなずいた。 「その代わり、最高の写真を見せてみなさい」 こうしてわたしたちは、金福寺へ向かうことになったのである。
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