第1話 春深き「茂庵」

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第1話 春深き「茂庵」

「吉田山の山頂に、『茂庵(もあん)』という喫茶店があります」 そんな教授の言葉を思い出したのは、新緑の濃さが深まる5月初めのことだった。 忙しさというものは五感を鈍くするから、いやだなと思う。大学に入学してひとり暮らしを始めると、慣れない環境にあくせくし、青空にぽうっと映える桜の美しさや、歓迎するように吹く春風の心地よさにも気づくことなく、ページをめくるように日々が過ぎていった。 ふと立ちどまってみると、花は散り、あの、冷たいともあたたかいとも言えない、冬と春の入り混じった風も、もう来年まで感じることはできないのだ、そんなのってさみしいわ、と、何とも言えない虚脱感が襲った。後悔とも悲しみとも違う。季節はまた巡ってくる。今年気づけなかったものは、また来年感じればいい。だけどああ、この気持ちは何かしら。1番おいしい部分が残っていることに気づかずに、お菓子の袋を捨ててしまったような。そう、もったいないことをしたのだわ。 そんなわたしの新生活に、5月の大型連休がしおりを挟むようにやってきた。いつもより遅く目覚めると、幽霊を背負っているようになんとなく気だるい。一度何かがぷつんと切れてしまうと、あれほど毎日やっていた家事も、1秒だってやる気にならないのはなぜだろう。あくびをして顔を洗うと、疲れた肌のしおれた女と目が合った。この人は一体誰だろう。わたし、こんなに覇気のない顔をしていたっけ。 部屋に戻って、窓からぼんやりと桜のない街並みを眺めた。せっかくあこがれの土地へやってきたというのに、京都のことを何も知らずに、毎日をただ過ごしている。受験勉強はもう終わったし、ようやくひとり暮らしにも慣れてきたはずなのに。それなのに、どうしてわたしは何も知らないの。講義もないこんな日に、どうして部屋に閉じこもっているの。 ――吉田山の、山頂に……。 ずっしりと佇む山々を見ていたら、記憶の彼方から声が聞こえた。低くて、落ち着いていて、どこか優しい。 あれは、誰の声だったかしら。 
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