第1話 春深き「茂庵」

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急遽部屋を飛び出したわたしは、大学のキャンパスに自転車を停め、吉田山の山頂へと向かうことにした。少し足を伸ばせば来ることができたはずなのに、訪れるのはこれが初めてだ。吉田神社の鳥居を抜けると、お年寄りから子供まで、幅広い世代の人々がちらほらと歩いているのが見えた。この人たちより、わたしは数歩出遅れているのだ。そう考えると少し悔しい。 階段を上り、ゆるやかな山道を歩いていくと、背の高い木々がわたしの上に覆い被さってきた。新緑の隙間から漏れる光が、宝石を含んでいるようにきらきらときらめいて、絶えることなく降ってくる。春の陽気を十分に含んだやわらかな風が、わたしの頬をするりと撫でた。木々がさざなみのように音を立て、子供のはしゃぎ声のようにチュンチュンと鳥がさえずる。 8051b32d-d3eb-418d-8ca7-0ecb6ab39e74 大きく息を吸い込んだら、まっさらな空気がすぅーっとわたしの中に入ってきた。不純物、0パーセント。ああ、なんて心地いい。一歩一歩進むたび、今朝方感じた気だるさが、ぽろりぽろりと落ちていく。しおれた花が水を得て、ぱっと上を向くように、わたしの顔もほころんでゆく。 1cdb4c38-de28-45d0-8a41-132802960fa5 15分ほど歩いていくと、遠くの方に隠れ家のような店が見えてきた。新緑のカーテンに守られた、趣のある木造の建物だ。2階の窓には、ぽうっと灯った黄色の明かりが見えている。看板に書かれた「茂庵」の2文字を見て、旧友と再会するような喜びが、胸の奥からじわじわとこみ上げてきた。
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