第1話 春深き「茂庵」

4/7
前へ
/171ページ
次へ
2階に上がったら、そこにはすでに多くの人々の姿があって、それぞれが穏やかにカフェの時間を楽しんでいるようだった。だからといって決して騒々しいわけでもなく、この店のゆったりとした雰囲気を崩さぬようにと、上品な笑みを添えながら会話を弾ませている。 「いらっしゃいませ」 階段のそばに立っていると、奥から店員がやってきた。店内を見渡して、困ったように眉を下げる。 「申し訳ありませんが、ただいま満席でして……相席でもよろしいですか」 店内には市中を見渡せるカウンター席、真ん中のソファー席、山に面したテーブル席があった。できればカウンター席に座って京都市を一望したいけれど、満席ならばしかたがない。大丈夫です、と答えると、反対側にあるテーブル席に案内された。 先客の男性が、読んでいた本から視線を上げた。あっ、と漏れそうになった声を呑み込む。さらりとした髪に見慣れた眼鏡。灰色の長袖シャツと、左手に巻かれた銀色の時計。そして手には、読み古した「伊勢物語解釈論」。間崎(まさき)教授はちらりとわたしを一瞥すると、何事もなかったように、再び書物に視線を戻した。 わたしはおそるおそる教授の真向かいに腰を下ろした。メニューをめくり、上ずった声でアイスティーを注文する。ぴん、と張った緊張の糸をゆるめるように、椅子の背もたれに背中を預けた。 そうよ、別に息を潜める必要なんてない。講義を受けているとはいえ、教授という立場の人間が、一学生のことなんて覚えているわけがないもの。その証拠にほら今も、わたしの方なんて見向きもしない。 笑い声の溢れる店内で、わたしたちのいる席だけが、凪いだ海のように静かだ。時の流れも、満ちている空気も、他の席とまったく違う。会話をするわけでもない。目を合わせることもない。だってわたしたち、友人ではないもの。ただ、「ひとり」と「ひとり」が向かい合ってここにいる。そう、たったそれだけですもの。 運ばれてきたアイスティーを飲みながら、わたしはそっと前を見た。テーブルを挟んで向かい側、なんて。普段では考えられないくらいの至近距離だ。向かい合うのは初めてではないのに、この距離になって初めて気づいた。本をめくる指の長いことや、目元に落ちるまつげの影が、女性のように美しいことに。 一体いつからここにいたのだろう。半分に減ったアイスコーヒーは、彼が過ごした時間を表すように、じんわりとグラスを湿らせていた。
/171ページ

最初のコメントを投稿しよう!

90人が本棚に入れています
本棚に追加