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――新緑に囲まれた空間で、アイスコーヒーを飲む時間がすきなんです。
そんな何気ない話を聞くのは、その日の講義が初めてだった。
特に出席点もない教授の講義は、立ち見が出たのは初回だけで、3回目にもなればもう教室には十数人ほどしか残っていない。いつものように和歌の解説を終えたあと、まるで友人に話すかのように言った教授の、いつもより少しやわらかい声が、今も鼓膜を揺らしている。
新緑に誘われるかのように、わたしは窓の外を見た。つい先ほどまで、車や自転車が走るような場所にいたのに。たった15分ほど山を登っただけで、まったく違う世界に来たみたい。時間の流れや漂う空気、そして、降り注ぐ光のあたたかさ。ここに集う人たちすら、下界と違うように感じられるからふしぎだ。ここが2階だからかしら。席に着いているはずなのに、ゆりかごに揺られているような、ふわふわとした浮遊感に包まれている。
ストローから口を離し、わたしはじぃっと目を凝らした。はるか遠くの山に、何かが描かれていることに気づいたからだ。あれは一体何かしら。「大」と、読めるような。
――ああ、そうか。
気づいた途端、口元に笑みが染み出した。あれは8月、五山の送り火で燃え上がる大文字山だわ。小さな頃から、何度もテレビで見たことがある。暗闇を切り裂くように燃え上がる、オレンジ色の炎を。
カウンター席に案内されていたら、きっと知ることができなかった。大文字山がここから見えるなんて。目の前にいるこの人に、教えてもらわなければ分からなかった。大学のすぐ近くに、こんな素敵な空間があるなんて。
ふと見ると、本を読んでいたはずの教授も、同じように大文字山を眺めていた。その景色を味わうように、ゆっくりとまばたきをする。
他の席にいる人たちのように、言葉を交わすことなんてないけれど。笑い合うこともないけれど。それでもきっと、同じ気持ちを共有している。心地よい沈黙が、春の光のように優しくわたしたちを包む。ああ、いつまでもこうしていたいわ。勉強も家事も、人付き合いも忘れて、ぼんやりとしていたいわ、なんて、子供のようなことを思った。
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