第1話 春深き「茂庵」

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どのくらい時間が流れたのだろう。 目の前にあったアイスコーヒーのグラスがからっぽになり、ページをめくる指がとまった頃。教授は静かに席を立つと、会計をして階段を降りていった。 教授の姿が消えてから、わたしは大きく息を吐いた。ああ、なんだか変に緊張してしまった。よく考えたら、こんなに気を張る必要なんてなかったのに。だってわたしは教授にしてみれば、ただの「学生A」なのだから。名前どころか、顔すらきっとあいまいだろう。まさか、自分の一言に動かされてここまでやってきた人間がいるなんて夢にも思うまい。 アイスティーを飲み終えたわたしは、たっぷりと店の雰囲気を味わってから席を立った。会計をしようとレジへ近づくと、店員が、ふしぎそうに首を傾げた。 「お代はもういただきましたよ」 誰が、と問いかけると、「向かいの席にいた男性です」と、予期せぬ答えが返ってきた。わたしははっとして振り返った。  もうそこには誰もいない。何も語らない広い背中も、興味を映さない瞳も。わたしがお礼を言う前に、風のように去ってしまった。 ――ああ。 他人と思っていたのは、わたしの方だったのか。
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