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大学のキャンパスにいる時も、街中を歩いている時も、もっと静けさがほしいと思った。人の話し声も車の走る音も、なんて騒々しいのだろうと不快に感じていた。だが、この無音の空間では、その騒々しさが少しだけ恋しい。重苦しい沈黙に呼吸がさえぎられるのを感じ、棗は白雪の顔をのぞき込んだ。
「あの、昨日の傷は……」
「……もう塞がりました」
声をかけられたことが意外だったのか、白雪は少しだけ驚いたようにまばたきをした。相変わらず表情は乏しいが、その仕草は小さな子供と変わらない。澄んだ鈴のようなきれいな声が、昨日より彼女を人間らしく見せていた。
会話が成立したことに安堵して、棗は緊張の糸をゆるめた。なぜ傷の治りが早いのかは疑問だが、白雪は確かに命を持った人間なのだ。血に塗れた彼女の姿が目の奥に焼きついて、知らず知らずのうちに恐怖心を抱いていた。だがこうして会話をしてしまえば、何てことはない、ただの子供だ。
それに、昨日は気が動転して確かめる前に逃げ出してしまったが、本当にナイフが白雪の心臓を貫いたとは限らないのではないか。あれは朝霧と白雪が自分を驚かせようとしただけの、ただの手品だったのではないか。そうだ、そうに違いない。だって現に白雪は、こうして生きているのだから。
「ごめんね、昨日は。……痛くなかった?」
「……どうして、そんなことを聞くんですか」
白雪は子供特有の、純粋な疑問を口にして、ふしぎそうに首を傾げた。
「殺した相手のことを気遣うなんて、変」
「殺した、って」
でもあなたは、生きてるじゃない――
喉元まで出た声を飲み込んで、棗はカバンを抱き締める腕の力を強くした。蛍光灯が、棗の様子をうかがうようにゆらゆら揺れている。落ちるタイミングを狙っているみたいだ。なんだか落ち着かなくなって、棗は座る位置を少しだけ右にずらした。
「どうして、傷が治ってるの?」
紅茶から立ち上る湯気が、ふたりの間をさえぎっている。
「あなたは、どうして生きてるの?」
白い靄の向こうにいる少女は、想定していた質問が来た、とでもいうように、眉一つ動かすことはなかった。動揺や困惑、不安や混乱。そういう人間なら誰もが持つであろう感覚が、彼女には備わっていないように思えた。青い瞳。生気のない、きれいな目が、棗をまっすぐ見つめている。言い知れぬ恐怖を抱きながらも、棗はその視線に応えるよう、彼女の顔を見つめ続けた。
先に目を逸らしたのは、白雪だった。
その時初めて、人形のような彼女の顔が苦しげに歪んだ。本心を隠すかのように、うつむいた顔に髪が垂れた。伏せた睫毛が弱く震え、喉の奥から、消え入りそうな声が静かに聞こえた。
「……私を殺せるのは、紫苑だけだから」
それは願いのようでもあり、祈りのようでもあった。
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