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雲の向こうにある太陽が、ゆっくりと西へ傾き始めた。床に広がる血だまりが、次第に乾いて、コンクリートの染みへと変わっていく。棗の服に付着した血液も、徐々に赤黒く変色し始めていた。
朝霧に案内された風呂に入り、棗はシャワーを全身に強く打ちつけた。排水口に流れていく赤い液体をぼんやりと眺める。いくら洗い流しても、自分が犯した罪は消えない。
白雪を射殺してから、数時間が経とうとしていた。あれほど全身を苦しめていた吐き気と震えは、徐々に治まりつつあった。人を殺しておいて平然とシャワーを浴びることができるなんて、自分は案外冷たい人間なのかもしれない。もうこの胸に恐怖はない。後悔なんて感じる余裕はない。ただ、言いようのない虚無感だけが、鎖のように巻きついて、少しずつ棗の首を絞めていった。
風呂から出て体をタオルで拭き、先ほど朝霧が用意してくれた服に腕を通した。朝霧のものであろう黒いロングTシャツは、ズボンを履かなくとも十分なほどの長さがあった。濡れた髪をタオルで巻いて、脱衣所から出た。風呂場のある4階は、朝霧たちの生活スペースらしい。大きなベッドが一つと、クローゼット。窓側にある小さな机には、ノートパソコンが置かれていた。簡素な部屋だが、他の階に比べれば生活感がある。
階段を下りて、3階の扉をそっと開いた。ソファに腰かけていた朝霧が、棗に気づいて顔を上げた。ソファに向かおうとした棗は、キッチンに立つ人影に気づき、ひゃっと短く声を上げた。
そこにいたのは、先ほど自分が殺したはずの白雪だった。足りない身長を補うように小さな箱に乗って、何食わぬ顔で野菜を切っている。食事の準備をしているらしい。もう白い服は赤く染まっていない。心臓に穴があいている様子もない。
答えを求めるように朝霧を見る。棗の反応がおかしいのか、朝霧は笑いを堪えるように口元を手で覆ってうつむいていた。
白雪から逃げるように、棗は早足でソファへと向かった。逃げ込むように腰を下ろし、もう一度、キッチンの方を振り返る。夢じゃない。幻じゃない。確かに、白雪は生きている。
「……何で?」
白雪の耳に届かぬよう、棗は口元に手をあてて声を潜めた。ひとしきり笑い終えた朝霧が顔を上げた。
「何でって、腹、減ってない?」
「え?」
「お前、昼飯食ってないだろ。食欲ないかもしれないけど、とりあえず食っとけよ」
「いや……あの、そうじゃなくて」
壁にかかっている時計は、午後4時を示していた。中途半端な時間だが、遅い昼食と考えれば納得できる。空腹を確かめるように、棗は自分の腹をさすった。あんなものを見てしまったあとでは、食欲なんて当然ない。断ろうとしたけれど、ふと思いとどまって、やめた。もしかしたら朝霧も、何も食べていないのかもしれない。自分のことを、待っていてくれたのかもしれない。なぜそう感じたのかは分からないが、なんとなく、そんな気がした。
「……あの子、一体何なの?」
殺したはずの人間が生きている。その異常な光景に、安堵よりもおぞましさがこみ上げてきた。
「さっき、確かに死んでたのに。何で平気な顔でご飯作ってるの?」
朝霧の表情が、ふっと薄くなった。テーブルの上にあった紅茶を手に持ち、時間を稼ぐように、ゆっくりと喉に流し込む。
「あいつの命は、1000個あるんだ」
紅茶を元の位置に戻して、朝霧はソファの背に体を預けた。
「だから1回や2回殺されたくらいじゃ死なないのさ」
「……人間じゃ、ないの?」
「だからこそ、人間に戻そうとしてるんだよ。1回死ぬたびに、本当の死に近づく。お前はあいつを、人間に戻す手伝いをしてやったんだよ。だから、罪悪感なんて抱く必要はない」
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