第1話 藍崎棗

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 昼食か夕食か分からない料理を、3人はテーブルを囲んで一緒に食べた。白雪の作ったものはハンバーグだった。せめて魚料理にしてくれたらよかったのに、と棗は泣きそうに顔を歪めたが、そんなことを主張できるほど図々しくはない。 白雪が小さな手で懸命に作ったそれは、一般的なサイズより少し小さめだった。焦げ目のついたハンバーグは、決してきれいとは言えない出来だった。添えられた野菜サラダに入っているキャベツも、みじん切りとは言えない大きさだ。おずおずと一口食べたら、大きな固形物が歯にあたった。怯えながらもガリガリと噛み砕いていくと、どうやら人参らしかった。1分以上噛み砕いたのち、棗はさりげなくお茶で喉に流し込んだ。  ちらりと朝霧を見ると、慣れているのか、文句一つ言わずに黙々とハンバーグを食べている。生に近い人参を噛むたびに、じゃりじゃりという音が鳴っていた。  棗は意を決し、再び箸を口に運んだ。枯れ果てた食欲を奮い立たせ、不格好のハンバーグを収縮した胃の中にどんどん詰め込んでいく。そうすることが、せめてもの白雪への償いになるような気がした。   食事を終えると、朝霧は「やることがある」と言って4階へと上がっていった。 「服、今乾かしてるから。それまではここにいろよ」  もちろん、こんな格好では外に出られるはずがない。こうして棗は、窓から見える空が灰色から朱に変わり、やがて群青色に染まっていくのを、白雪と一緒に眺めることになった。   することがなかったので、棗は白雪の洗い物を手伝うことにした。しかし洗い場は一つしかないので、結局は白雪がすべて食器を洗い、棗はただそれを受け取って布巾で拭くことしかできなかった。  洗い物がすべて終わると、また手持ち無沙汰になった。ソファに向かい合って座り、じっと時が過ぎるのを待つだけだ。白雪は何もしゃべらないどころか、目も合わせてくれない。やはり自分を殺した相手と向き合うのは、気分がいいものではないのだろうか。 一度はそう推測したものの、時間が流れるにつれ、それは間違いだということが分かった。どうやら白雪が目を合わせないのは無意識らしい。考えごとをするようにぼんやりと宙を眺めている。 感情がない、と朝霧は言った。本当にそうなのだろうか。本当に、恨みも悲しみも、恐怖さえも、彼女には存在しないのだろうか。 「……ねぇ、白雪、ちゃん」  初めて名前を呼ぶと、虚空を見つめていた白雪の瞳に、ぽっと光が灯った。ゆっくりと、棗を視界に入れる。 「死ぬって、どんな感じ?」  こんな質問を彼女にするのは、失礼なのかもしれない。だがどうしても、聞いておかなければならない気がした。そうでなければきっと自分は、死を知らないまま、他人に死を与えてしまうことになる。それはひどく不合理で、不条理なことのように思えた。 「私は本当の死を経験したことがないので、正確なことは分かりません」 「それでもいいの。……教えてほしいの」  真剣な口調でそう言うと、白雪は困ったように眉を下げた。口元に手をあてて、しばらく考え込んだのち、 「……夜になるような、感じです」 「夜?」  はい、と白雪はうなずいた。 「目の前が、真っ暗になるんです。光がなくなって、思考が停止します。それからの意識はありません。目を開けたら、すべて元通りになっています」 「……白雪ちゃんは、嫌じゃないの? 私が言うのもなんだけど……殺されること、こわくないの?」 「こわくはありません。痛みもありませんし、私はあと856回は生き返りますから。それに……」  そこで白雪は言葉を切った。思いを馳せるように目を伏せて、 「目が覚めた時、紫苑がいるから」  愛しそうに、ささやいた。 「だから私は、安心して死ぬことができるんです」  ――どうして?  そう尋ねたくなったけれど、寸でのところで棗は言葉を飲み込んだ。それ以上ふたりに踏み込んではいけないような気がした。そう、と小さくうなずいて、棗はテーブルの上にあったティーカップを手に持った。  初めて会った時から感じていた。ふたりの、排他的な関係を。特別な関係ではないと朝霧は言ったけれど、きっとそれは違うのだろう。朝霧は気づいていないのかもしれない。朝霧と白雪の間に漂う、異質な空気に。 この2日間、朝霧と白雪は一言も言葉を交わしていない。目を合わせることもめったにない。だがそれでも、確かに肌に感じる。朝霧と白雪が持つ雰囲気は、互いにそっくりなのだ。人を踏み込ませない冷たい瞳。時折見せる優しげな表情。その同一性が、他人を排除しているのだ。まるで見えないバリアが張られたように、他人は一歩も踏み込めなくなる。そういった空気が、ふたりの間にはあった。  白雪にとって、朝霧は一体何なのだろう。ふたりの関係は? どうして「殺され屋」なんてしているのだろう。  知りたいことは山ほどあるが、きっとそれを尋ねても、白雪を困らせるだけだ。喉にこみ上げる質問をさえぎるように、棗は紅茶を一口飲んだ。  窓の外は、深い闇に侵食されていた。星のように輝く街のネオンも、この閉鎖されたビルまでは届かない。この広い世界で、ここだけが隔離されているような気がして、ぞっとした。風なんて吹いていないのに、途端に背筋が冷たくなった。朝霧と白雪は、こんな孤独な空間で暮らしているのだろうか。こんなさみしい部屋で、生と死を繰り返しているのだろうか。 「……殺される方より、殺す方が、痛い時もあるんです」  棗の心を見透かしたように、白雪がぽつりとつぶやいた。その瞳は棗ではなく、夜の闇に向けられていた。 「安易な殺意を持つ人間はたくさんいます。だけどそれを実行に移す人は、ほんのひと握りしかいないんです。人の命を奪うということは、罪の十字架を背負うということだから。憎い人を殺しても、心が満たされることは決してないから。たとえ裁かれなくても、罪の意識は残ります。それに耐えられず、自ら命を断つ人もいます」  大人のように流暢に、機械のように淡々と、白雪は話し続けた。彼女はきっと、これまで棗のような人間を何人も見てきたのだろう。そして何度も、殺されてきたのだろう。そう考えたら、心臓が、怯えたようにどきんと跳ねた。苦しみが喉に詰まって、息がうまくできなくなった。  白雪が、ゆっくりと棗に視線を戻した。 「あなたは、それに耐えられますか?」  棗は呼吸を整えるよう、自分の胸に手をあてた。目蓋を閉じたら、自分を捨てた男の顔が浮かび上がった。ずっとずっと愛し続けた、殺したいほど憎い男。殺したいほど、愛した男。その男が恋をした、自分の親友。自分を裏切った、ずるい女。  裏切られたことが悔しかった。死んでしまえばいいと思った。思いを抱くのは簡単なのに、実行することはこんなにも難しい。白雪から学んだことだ。  大きく深呼吸をしたら、乱れていた呼吸が、徐々に冷静さを取り戻してきた。心の静寂を壊さぬよう、棗はゆっくりと目を開けた。  後悔しないように、生きていくことができるなら。 「……私、は」  ――私は。
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