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自分の服に着替え、棗はカバンを肩にかけた。腕時計を見ると、いつの間にかもう午後8時を過ぎていた。血の跡が消えたシャツを右手で撫でながら、4階へと向かう。
「朝霧、さん」
扉を軽くノックして名前を呼ぶと、数秒もしないうちに朝霧が出てきた。「どうした?」何かの作業をしていたのか、朝霧の顔には若干疲れが浮かんでいる。
「何してたの?」
「仕事だよ」
「……『殺され屋』の?」
そうだよ、と朝霧は微笑んだ。相変わらず、むだにきれいな笑い方をする男だ。優しくて、残酷な「殺され屋」。あたたかくて冷たい、ふしぎな人。棗は朝霧を見上げて、そっと微笑んだ。
「私、帰るね」
朝霧はほんの一瞬だけ、驚いたように目を見開いたが、「そうか」と小さくつぶやいただけで、それ以上何も言うことはなかった。棗は小さくうなずいて、そのまま階段を下りていった。
3階の扉の前で、白雪が立っていた。ありがとう、と伝えると、白雪ははい、と短く応えた。その口元が少しだけ微笑みを浮かべたのを確認して、棗は階段を下りていった。もうここに来ることはないだろう。予感を胸に抱きながらも、振り向くことはなかった。
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