36人が本棚に入れています
本棚に追加
恋人であった斎賀翔吾と出会ったのは、中学1年生の時だった。特別な出来事があったわけではない。席が隣になって、言葉を交わすようになって、気がつけば、目で追っていた。
2年生の時、付き合い始めた。手を繋いで登下校して、休日にはデートを重ねた。喧嘩をしたことは一度もなかった。翔吾と同じ高校に行きたくて、勉強をした。大学受験も頑張った。彼が隣にいることは必然で、もう決して離れることはないと思っていた。今思えば、なんと幼稚で浅はかな考えだったのだろう。
大学の学生寮に戻った棗は、散乱した部屋を眺めて肩を落とした。昨日の夜、別れを告げられたあとに暴れた爪痕だ。床に散らばった衣服と本。引きちぎられたぬいぐるみ。ぼろぼろのカーテン。すべてが、これは悪夢でないことの証拠だ。もう、終わってしまったのだ。
棗は小さく息を吐き、フローリングの床に腰を落とした。カバンから携帯電話を取り出して、何気なく、画面を見てみる。メールも電話も来ていない。もう、何も繋がっていない。まだ期待してしまう自分に失望し、棗は携帯電話をベッドに放り投げた。
散乱した衣服を片づけていたら、1冊のアルバムが出てきた。見たくない、と思うのに、どうして、開いてしまうのだろう。中学時代からずっと集めてきた、彼との思い出。文化祭や修学旅行の写真から、何気ない日常を切り取ったものまで。小さな幸せが詰まっている。
この思い出を、捨てよう。アルバムを最後までめくり終えたら、少し気持ちの整理ができた気がした。別れを告げられてしまった以上、これ以上彼に縋ってはならない。そんなみっともない女にはなりたくない。迷いを振り払うように立ち上がり、アルバムをごみ箱へ投げ捨てようとした、時だった。
――殺してやる。
耳元で、またあの獣の声がした。はっとして振り返ると、姿見に映った自分と目が合った。肩まで伸びた長い髪。生気のない暗い瞳。痩せた足。リップで塗った桃色の唇が、ばかにしたように薄く笑った。殺してやる。音のない声でささやきかける、獣のように低い声。綿菓子のように甘い言葉。悪魔のような、その、誘惑。
どうして捨てられなければならないの。100パーセントの愛は、100パーセントで返ってこなければならないのに。痛みや苦しみで、返ってきていいはずがないのに。
心に黒い花が咲く。水を与えられた虚しさの花が黒に染まり、ゆっくりと形を変えていく。涙を養分に。苦しみを肥料に。ゆっくり、ゆっくり。その丈を長く伸ばしていく。
手からアルバムが滑り落ち、ごとりと鈍い音を立てた。見えない何かに吸い寄せられるように、棗は姿見に近づいた。同じ顔をした醜い女に触れようと、右手を姿見にそっとあてる。殺してやる。殺してやる。
「殺して、やる」
口にした途端、言葉が強く力を持った。あいまいだった殺意に輪郭が与えられ、胸に溢れたさまざまな思いが、黒という明確な色に塗り潰された。
鏡の中の女が、もう一度、にやりと口の端を上げた。愛していたはずの男の姿を、心の鏡に思い描く。そうしたら、少し、楽しくなった。
最初のコメントを投稿しよう!