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第2話 仁科隆也
「愛は、悠久だ」
男が仰々しく演説するのを、仁科隆也は虚ろな瞳で眺めていた。
焼香のにおいが鼻をくすぐる。昨日から降り続く雨のせいで、畳の湿気が気になった。普段自室に引きこもっているとはいえ、こんな小さな和室に十数人もの人間とともに閉じ込められているこの状況はひどく不快だ。
あと一体どれくらい、薄い座布団の上で正座をしていなければならないのだろう。いい加減足を崩したいが、痺れて動かない。いや、足の痺れに関係なく、隆也には体を動かす気力がなかった。柩の中で横たわる母の前で、わざとらしい演説をする沢木創の声が、毒ガスのように広がって、隆也の気力を奪っていく。ただ胸の中に湧き上がるのは、目の前の男への憎しみだけだ。
「たとえ魂が朽ちても、その愛だけは残り続けるのです。だから悲しむことなんてない。仁科由美子はすばらしい人だった。女手一つで隆也君を育て、病に倒れながらも、最後まで生きることを諦めなかった、道徳心の塊のような人だ。ああ、かわいそうな隆也君! そんなに悲しい顔をしないでおくれ。私はこれからも全力で君をサポートしよう。君は何も心配することなんかない。大丈夫、あとのことはすべて私に任せてくれ。こういったことはまだ君にはよく分からないだろう。心配ない。全部私に任せておくれ……」
毒ガスのような言葉を吸い込んだ遺族が、涙と嗚咽を漏らしていく。部屋の湿度がますます上がるのを感じて、隆也は顔をしかめた。部屋の外で鳴り響く雨音と沢木の声が入り混じって、不協和音を奏でている。耳の奥が痛い。頭がぼんやりする。魂が、抜け出ていく。
いや、いっそのことその方がいいのかもしれない。このむだな命が自分から抜け出たら、ここにいる親族はみな喜ぶだろう。そして自分自身も、母と再会することができる。それはそれで、悪くない。
だけどその前に、やらなければいけないことがある。
「私、沢木創はこれからも……」
「……お前が、殺したんだろ」
部屋を流れていたすべての音が、ぴたりととまった。それが自分のせいだと気づいた時には、すでに全員の視線が隆也に集まったあとだった。
「……ちょっと、何言ってるのあんた」
叔母の低い声が、責めるように吐き出される。だがもうその声は、隆也の耳には届いていなかった。隆也はふらりと立ち上がり、よろよろと沢木に近づいた。足が痺れてうまく動かない。
「お前がおふくろを殺したんだ。最初からそれが目的で近づいたんだろ。金をもらおうったってそうはいかないぞ。お前の思いどおりにはさせないからな」
「やめろ、隆也!」
危険を察した叔父が立ち上がり、隆也の腕をつかんだ。沢木は何も言わない。動揺すらも顔に出さず、憐れむようにこちらを見ている。
「俺は知ってるんだ。お前がおふくろから金をもらってたこと。何が魂だ。お前はただの偽善者だ。お前なんか、今すぐにでも俺が殺して……」
「あんた、何言ってんの!」
甲高い叫びとともに、叔母の右手が隆也の頬を引っぱたいた。隆也はびっくりして、ようやく足を前に進めることをやめた。叔母は両肩を激しく上下させ、鬼のような形相で隆也を睨んでいた。
「沢木さんは由美子のことを思って言ってくれてるのに! あんただって散々沢木さんのお世話になったくせに、恩を仇で返すようなことを言って」
叔母の全身が怒りで震えている。目尻に寄った皺がさらに深まった。
「そんなえらそうなこと、あんたが言えるの? 働かずに由美子のスネかじってたあんたが」
「やめろ、葬儀の最中だぞ!」
「まあまあ、落ち着いて」
怒鳴り合う叔父と叔母をなだめるように、沢木が微笑む。もう何度見たか知れない。この、悪をむりやり白色に染めたような不細工な笑顔を。
「隆也君はお母様を失って動揺しているのです。悲しみを怒りに変えることで、心を落ち着かせようとしているのです。どうか彼を責めないでください」
「お前、よくも……」
隆也はぐっと拳を握り締めた。この減らず口が。怒りで頭が変になりそうだった。これ以上自分が何を言ってもむだだ。
「叔父さん」
訴えるように叔父を見た。みんな騙されているんだ。こいつはただの偽善者だ。こいつが母を殺したのだ。しかし叔父は、痛々しげな表情で隆也を見つめた。先ほどまでの動揺も怒りもそこにはない。沢木の言葉を鵜呑みにし、隆也が悲しみで気をおかしくしたと思ったのだろう。
「隆也。もう、うちに帰れ」
「ちょっと、叔父さん……」
そこで初めて、親族全員の視線が自分に集まっていることに気がついた。自分の味方は誰ひとりいない。この空間では、悪者は沢木ではない。自分なのだ。隆也は歯を食い縛り、力なくその場をあとにした。
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