第2話 仁科隆也

8/19
前へ
/117ページ
次へ
「分かった」  ふたりの様子を見ていた朝霧が、会話の合間に入ってきた。 「とりあえずふたりと契約しよう。あんたら、名前は?」 「……仁科隆也」 「杏璃」 「オッケー。じゃあ、杏璃」  名前を呼ばれた杏璃の肩が強張った。これから何が始まるのだろう。何を言われるのだろう。しかし告げられたのは、全く予期していない言葉だった。 「白雪と一緒に、買い物してきてくれないか。食材、切らしてるんだ」 「は?」  これには杏璃だけではなく隆也も驚いた。なぜそんなことを? その疑問を口に出す前に、杏璃が不機嫌そうに身を乗り出した。 「何であたしがそんなこと」 「ふたりいっぺんに教えることはできないんだ。あとからたっぷり教えてやるから」  隆也はちらりと、白雪と呼ばれた少女を見た。白雪。彼女にぴったりの名前だと思った。白雪はぴょん、と勢いをつけてソファから立ち上がった。杏璃はまだ不満げだったが、「……絶対だからね」とだけ言い残して、白雪とともに部屋から出ていった。  遠ざかっていく足音を聞いていたら、朝霧がおかしそうに喉を鳴らした。 「あの子、あんたの妹?」 「いや……従兄妹」 「ずいぶん威勢がいいんだな。あんたと違って」 「……杏璃は昔からああなんだ。小さい頃から賢くて、度胸があって……俺なんかとは、大違いだよ」  彼女がまだ小学生の頃。部屋に引きこもっていた隆也の元にやってきては、もっと母親の手伝いをしてやれと怒鳴ってきたものだ。嫌がる隆也の手を引っ張って、狭い部屋から隆也を連れ出した。今だってそうだ。こうして外を出歩くのは何年ぶりだろう。理由はどうであれ、杏璃はまた、隆也を外の世界へと連れ出したのだ。 「あんたはあの子の意見には反対みたいだな。殺したいやつ、いるんじゃないの?」 「殺したいよ。……殺したいほど、憎いよ。だけど俺には覚悟がない。何かに立ち向かう勇気なんてないんだ」  きっとどれだけ憎くても、どれだけ殺したいと願っても、自分に沢木は殺せないだろう。それだけではない。沢木に真正面から立ち向かう勇気すら、自分にはないのだ。 「それなのにどうしてここに来た?」 「……杏璃の手を、汚しちゃいけないと思ったからだ」  隆也は両手を強く握り締めた。 「あの子は、俺と違って優秀だから。だから、守らなきゃいけないと思ったんだ」 「ふぅん」  朝霧が、興味深そうに頬杖をついた。 「それで?」  ああ、この男は続きを催促しているのだ。暗い瞳とは反対に、その表情はやけに優しい。この男なら、自分の話を真剣に聞いてくれる。なぜだか、そんな予感がした。 「……俺は、引きこもりなんだ」  気がついたら、隆也の口から自然に言葉が出ていた。 「小さい頃から勉強くらいしか取り柄がなかったから、勉強ばっかしてた。だけど大学受験に失敗して、その絶対的な取り柄がなくなってから、家にこもりがちになったんだ。中学の時両親が離婚して、おふくろは女手一つで俺を育ててくれた。俺が働いて楽をさせてあげなきゃいけなかったのに、俺はどうしようもないクズになってた。それがおふくろを苦しめたんだ。そんな時、沢木に出会った」 「そいつが、お前の殺したいやつ?」 「ああ。……沢木はカウンセラーを名乗ってて、おふくろの相談に乗ってたらしい。それでおふくろはすっかり心を許して、沢木にお金を使うようになった。うちに呼んで夕飯を振舞ったり、沢木のためにプレゼントを用意したり……。ふたりはいつの間にか、付き合うようになってたんだ。最初は俺も、おふくろに新しい恋人ができたって思って歓迎してた。……だけど違うんだ。あいつは、ただおふくろの金が目的だったんだよ。おふくろは沢木に貢ぐため、仕事の量を増やした。沢木にそそのかされたんだ。その結果、おふくろは過労死した。……俺の怠惰と、沢木のせいで」  話を続けていたら、憎しみで全身がわなわなと震えてきた。最初から何もかもおかしかったのに。なぜ自分は何もしなかったのだろう。これじゃあやはり、母を殺したのは自分じゃないか。 「沢木は、今度は叔母さん……杏璃の母さんに取り入って、杏璃の父親を殺そうとしてるみたいなんだ。だから杏璃は、そうなる前に沢木を殺そうとしてるんだ。でも俺は、杏璃に罪を犯してほしくない。杏璃には未来がある。頭もいいし、顔もかわいいし。俺には未来なんてないし、杏璃の手を汚すくらいなら俺が、って……」 「……お前は、あの子を救いたいんだな」  朝霧が、静かにつぶやいた。隆也ははっと顔を上げた。  救いたい? ああ、そうだ。自分はただ、杏璃に、幸せになってほしいんだ。杏璃の幸せを、沢木に奪われたくないのだ。このまま沢木を放置しておくことも、彼女に沢木を殺させることも嫌なのだ。だから自分は、ここまで来たのだ。 「お前の『覚悟』は分かった」  朝霧の一言で、隆也ははっと顔を上げた。しゃべりすぎた。そう気づいたら途端に気恥ずかしくなって、慌てて紅茶を喉に流し込んだ。  どうしてこんなにいろいろ話してしまったのだろう。こんなに長く人と話すのは何年ぶりだろう。この男は、ついさっき会ったばかりだというのに。  よくよく考えたら、なんてばかな話なのだろう。沢木のことより、自分のクズっぷりが露呈しただけだ。だが朝霧は、引きこもりで臆病な自分の話を、真剣に聞いてくれた。見た目よりもずっと、優しいやつなのかもしれない。 「あいつが帰ってきたら、殺し方を教えてやるよ」  朝霧は残りの紅茶を飲み干すと、ゆっくりとソファから立ち上がった。 「代金は、後払いでいいからな」
/117ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加