第1話 藍崎棗

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 次の日は、曇りだった。街中に散りばめられた桜の花弁も、灰色の空の下では薄汚れて見える。  人の波に流されながら、棗は翔吾の家へと向かっていた。月曜日の昼下がり。確かこの時間、翔吾は講義がない。今ならきっとマンションにいるはずだ。もしいなかったら、部屋の前で待っていればいい。信号に焦らされながら、コンクリートの道を歩いていく。横断歩道の前で足をとめ、赤い光をじっと見つめる。  肩にかけているカバンの中に手を入れて、果物ナイフの感触を確かめた。ひんやりとした金属の温度が、今この瞬間を、確かなものにしていく。  どうかしている、と棗は思った。今から自分がしようとしていることは、明らかに異常だ。 ニュースで報道されるありふれた悲劇。恋愛を巡る殺人。それらを見るたびに、なんてばかなことを、と顔をしかめていた。どうして愛する人を殺せるのだろうと疑問に思った。 だが、今ならはっきりと分かる。愛が強ければ強いほど、また、憎しみも増大するのだ。  棗に同意するかのように、信号が青に変わった。この横断歩道を渡れば、すぐに彼の家に着く。 歩き出そうとしたその瞬間、背後から、冷ややかな男の声がした。 「――誰を殺しにいくんだ?」 「……え?」  踏み出そうとした足を元の位置に戻し、振り向いた。時間に急かされた人の波が、勢いよく棗を追い抜いていく。  動き続ける景色の中で、ひとりの男が、微動だにせず立っていた。赤銅色の髪。空と同じ色の、暗い瞳。優しくておそろしい、穏やかな微笑。年は自分と同じか、少し上くらいだろうか。首から下げたネックレスと、耳につけた銀色のピアスが、若者らしさを強調している。 「そんな殺気じゃ、殺せないよ」  男はゆっくりと棗に近づくと、夜の闇のようにささやいた。小さな声。だが、喧騒の中でもはっきりと聞き取れるほど、力強い声だ。  この男は、何を言っているのだろう。忍ばせたナイフを守るよう、棗はカバンを抱きかかえた。心臓が、警告するように大きく跳ねている。早く逃げろと急かしている。しかし、足を動かすより早く、男は棗の手を取った。 「ちょ、ちょっと……」 「来いよ。教えてやるから」  抵抗する暇も与えず、男は棗を横断歩道とは反対方向へと引っ張っていく。コンクリートにヒールが擦れ、足がもつれそうになる。 「教えるって、何を?」  人の波をかき分けて進む男の背に、動揺をぶつけるように叫んだ。男は肩越しに棗を見ると、ひどく優しい声で答えた。 「人の殺し方」
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