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硝煙がゆらゆらと揺らいで、視界を曇らせた。
役目を終えた右手を力なく下ろした。全身の力が抜けていくのを感じる。少しでも気を抜いたら、このまま倒れ込んでしまいそうだ。今、目の前でこと切れている白雪のように。
とまった時間を動かすように、朝霧が隆也に近寄った。
「やるじゃん。やっぱお前、素質あるよ」
「……そう、かな」
なぜか、笑いがこみ上げた。目の前には白雪の死体が転がっているというのに。赤い血だまりに沈む彼女の体は、作りもののようにきれいだ。もはや一種の芸術品だ。小さな命の灯火を、自分が吹き消してしまったのだ。なのに自分は笑っている。なぜなのかは分からない。こうすることが最善だと思ったからだ。
「この分だと、お前が直接沢木ってやつを殺せそうだな。覚悟がないとか言ってたのは誰だよ。とんだ嘘つきだ」
朝霧の言葉が続く間に、杏璃がふらふらと白雪に近づいた。血だまりの中に膝をつき、呆然としながら体を揺さぶる。
「ねぇ、隆也」
杏璃が、抑揚のない声で隆也を呼んだ。
「この子、心臓動いてないよ」
白雪の小さな胸に耳をあてる。さっきまであったはずの命はもうどこにもない。白雪はもう、どこにもいない。
「体、冷たいよ……」
「当然だろ。死んだんだから」
朝霧が、冷酷な声で言い放った。先ほどまで見せていた優しさは微塵も感じられない。
「……何で?」
杏璃がふらりと立ち上がった。白雪の血が手足について、まるで杏璃自身が傷ついているように見えた。
「何で白雪を殺させたの?」
無機質なコンクリートに、杏璃の叫びが反響する。
「白雪はあんたのためにあんなに尽くしてたのに! 買い物の時も、あんたのすきなものばっかり買って、料理だって、へたくそなのに頑張って……なのに、どうしてこんな残酷なことができるのよ!」
朝霧は何も答えない。杏璃はぎろりと隆也を睨んだ。
「隆也……あんたもあんた! どうしてほいほい白雪を殺しちゃうのよ? この子は沢木じゃない! この子は死ぬ必要なんかない! ……せっかく仲よくなれたのに、何で……」
「……杏璃に、人殺しっていうのを分かってほしかったんだ」
声を絞り出したら、喉の奥がひりひりと傷んだ。
「う、うまく、しゃべれないんだ。体も震えるし、そっちが、見れないんだ。やっぱり杏璃に、こんなことは、させられないよ……させられ、ないんだよ……」
「……じゃあどうすればいいの?」
杏璃は隆也に近づいて、血に汚れた手で隆也のシャツをつかんだ。
「どうすれば家族を守れるの? どうすれば、どうすればあたしたちは幸せになれるの? どうすればあいつに復讐できる? 教えて、教えてよ……!」
杏璃の瞳から、ぽろぽろと、雨粒のような涙が溢れ始めた。小さな肩が小刻みに震えている。抱き締めようと伸ばした手を、隆也は力なく引っ込めた。銃を握ったままでは、杏璃を抱き締めてやることもできない。いたたまれなくなって、隆也は杏璃から目を逸らした。
「……どうして、泣いているんですか」
その時、か細い声が杏璃の泣き声に紛れて聞こえてきた。杏璃は泣くことをやめ、ゆっくりと、振り向いた。
死んだはずの白雪が、少しだけ頭を浮かせてこちらを見ていた。
「白、雪……」
杏璃がふらふらと白雪の元へ近寄った。崩れ落ちるように両膝をついて、白雪の手をぎゅっと握る。
「泣かないでください、私なんかのために」
「……死んで、ないの?」
「そいつは、1回殺されたくらいじゃ死ねないんだ」
それまで口を閉ざしていた朝霧が、ぶっきらぼうに言った。
「でも普通の人間の命は一つしかない。こんな奇跡は起こらない」
隆也はじっと杏璃と白雪を見つめた。杏璃は顔を上げない。朝霧は追い詰めるように、厳しい口調で続けた。
「なぁ、もう一度聞く。あんたには、人を殺す覚悟があるか?」
杏璃は何も答えなかった。長い髪に隠れて表情は見えない。
隆也は手の中の銃を強く握り直した。この重みを忘れてはいけないと思った。
外はもう夜の色に染まって、星の光すらこの部屋には届かない。夏はすぐそこだというのに、なんだか妙に肌寒かった。
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