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障子の向こうから、沢木と叔母の声が聞こえる。密やかな会話を一言も聞き逃さぬよう、隆也は息を潜めた。
杏璃を朝霧の元に残したまま、隆也は叔母の家に戻っていた。時計の針は午後10時を示している。叔父はまだ帰ってきていないようだ。こんな夜に、どうして沢木がこの部屋にいるのか。理由なんて、考えなくても分かる。
「あの人ったら、由美子のことも全部私に押しつけて、仕事仕事で……」
「しかたないですよ。彼はそういう人なのです。ここは力を合わせ、彼に非を認めさせましょう。そしたらあなたにも、幸せがやってくるはずです……」
何が幸せだ。心の中で悪態をつく。叔父さん、早く帰ってこいよ。こんなこと言われてるぞ。
「本当はね、由美子さんはあれで幸せだったんではないかと思っているんです。彼女は引きこもりの息子がいるという現実に縛られていた。死によって、その辛さから解放されることができたと思うんですよ。彼女の人生は悲しみに満ちていた。あんな失敗作を産んだのが間違いだったのです」
「……いい加減にしろよ、お前」
勢いよく障子を開けると、ふたりがはっとしたように振り返った。
「隆也……」
叔母が、しまった、というように口元に手をあてた。沢木は一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに嘘っぽい笑みを浮かべた。
「……ああ、隆也君」
「叔母さん、そいつから離れて」
「どうしたんだい、隆也君。私は……」
とぼける沢木を無視して、隆也はズボンのポケットから紙切れを取り出した。
「これ見て」
叔母が、戸惑いながら紙を広げる。そこに書かれていた内容を見た途端、叔母の戸惑いが驚愕へと変わった。
「ネットで調べた結婚詐欺の掲示板に、沢木の名前があった。被害者もぼろぼろ出てる」
叔母の手がわなわなと震え出した。先ほどまであれほど信頼していたはずの男を、縋るように見上げる。
「……これを見ても、そいつのこと信じるの?」
たたみかけるように、隆也は言った。
しん、と部屋の空気が重く沈む。風が窓をぎしぎしと揺らしている。か細く聞こえる虫の声が、闇の中に溶けてゆっくりと消えていった。
高鳴る心臓を抑え込みながら、隆也は沢木を睨みつけた。全身が小刻みに震えている。本当は今すぐここから逃げ出したい。だが、逃げるわけにはいかないのだ。
ここで逃げ出してしまったら、杏璃はきっと沢木を殺す。沢木によって、苦しめられる。そんなこと、させてはいけない。絶対に。
「ただの引きこもりだと思っていたが、なかなかやるじゃないか」
無表情だった沢木の口元が、怪しく笑みを作った。
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