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第3話 七星神狩
死なんて、自分には関係のないものだと思っていた。
「神狩ぃー、朝ご飯できてるわよぉ」
朝。東向きの窓から降り注ぐ太陽光に目を細めながら、七星神狩は「ちょっと待ってぇ」とリビングに向かって叫んだ。慌てて制服に着替え、長い髪を二つに結ぶ。寝癖がひどくてうまくまとまらない。スプレーを髪全体に噴射して、なんとか形を整える。
バタバタとうるさく階段を駆け下り、リビングへと入った。妹の隣に腰かけて、テーブルの上にあるパンをかじる。
「あんた、いつもいつも遅いのよ」
「髪がうまく結べなかったの」
母親の小言を聞き流していると、妹の花梨がばかにしたように鼻で笑った。
「お姉ちゃん、相変わらず制服似合ってないね」
「うっさいなー、嫉妬?」
「何でそうなるのよ」
花梨は短く息を吐いて、あきれたように頬杖をついた。
「そんなレベルの低い高校、私は行きませーん」
「何よそれ。あんた、ちょっと優秀だからってねぇ……」
「ふたりとも、朝から喧嘩しない!」
母親の怒鳴り声が、ふたりの頭をごつんと殴った。ぶすっと口を曲げて顔を見合わせる。
『続いてのニュースです。××区のマンションで、男性が首を切られて殺害されているのが……』
アナウンサーの淡々とした声が、朝の空気を冷たいものに変えた。テレビを見ると、見覚えのある街並みが映し出されている。
「うわぁ、この辺じゃん」
花梨が苦々しく顔を歪めた。「ふぉんとだ」パンを口に含みながら、神狩ももごもごと相槌を打った。
灰色のマンションも少し寂れた住宅街も、この家からそう遠く離れてはいない。30分も自転車をこげば到着してしまうほどの距離だ。見慣れた土地でも、こうしてテレビに映ると全く知らない場所のように感じるからふしぎだ。
「あんたたちも気をつけなさいよ」
母親の心配そうな声に、神狩はへらへらと笑って見せた。
「大丈夫大丈夫。人に恨まれるようなことしてないし」
能天気な姉の言葉に、花梨も苦笑しながらうなずいた。あんたねぇ、とあきれたようにため息をつく母だが、神狩はそんなこと気にも留めない。パンを飲み込み時計を見ると、時刻は8時5分を過ぎていた。
「やばっ、遅刻する」
慌てて牛乳を飲み干して立ち上がる。カバンをかけて玄関へ走ると、母の声が追いかけてきた。
「あ、今日漣君来るからね。早く帰ってきなさいよ」
「はぁい! 行ってきます!」
元気よく返事をして、神狩は玄関の扉を開けた。自転車にまたがり、青空の下、坂道を一気に駆け下りていく。もうすぐ梅雨だというのに空は相変わらずご機嫌で、暑すぎる気温を和らげるように頬をすり抜ける風が気持ちよかった。
日常は、普遍的だ。新しい制服もすっかり板についてきた。変わったことなんて何もない。平々凡々な日常に、わりと満足もしている。殺人事件とか、人の死とか、そういうことは全く関係ない。少し苛立つことがあっても、大抵はすぐに忘れてしまう。現状に満足しているわけではないけれど、特に不満もない。やりたいことがなくても、叶えたい夢がなくても、今はさほど焦ってはいない。お前はまだ若いんだよ。そうやって大人が慰めてくれる。だから、大丈夫だ。そう思っていた。思い込んでいた。この頃は、まだ。
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