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狭い路地裏を通って連れていかれたのは、今にも崩れそうな5階建てのビルだった。男に連れられるがまま中に入り、古ぼけた階段を上っていく。まだ昼間であるというのに、そこは夜のようにひっそりとしていた。肌に感じる空気が冷たい。足を一歩動かすたび、傷んだ階段がぎしりと軋む。
「どうぞ」
3階まで上ったところで、男が部屋の扉を開けた。棗はカバンを抱き締めたまま、おそるおそる部屋の中に足を踏み入れた。
殺風景な部屋だ。広い空間に、二つのソファがテーブルを挟んでぽつんと置いてある。奥の方にはキッチンがあった。大きな窓に囲まれているのに、部屋の中は薄暗い。まるですべての光を遮断しているみたいだ。
「座れよ」
ぶっきらぼうにそう言って、男は先にソファへと腰を下ろした。棗は警戒の眼差しを向けたまま、その場を動こうとはしなかった。
勢いでここまでついてきてしまったが、本当にこれでよかったのだろうか。この男は、どうして自分に声をかけたのだろう。なぜ、潜めていたはずの殺意に気づかれたのだろう。思考を巡らせていると、ばたばたと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
振り向いた先に現れた人物を見て、棗ははっと目を見張った。そこにいたのは、10歳くらいの少女だった。ショートボブの髪に、大きなリボン。雪のように白い肌。日本人離れした青い瞳。フリルのついた白いワンピースが、空中にふわりと揺れた。少女は、宝石のような瞳に棗を映すと、小走りにキッチンへと向かっていった。
まるでフランス人形のようだ。後ろ姿を眺めながら、棗はぼんやりとそう思った。この薄汚れた空間に似つかわしくない、純白をまとった少女。どうしてこんな子供がここにいるのだろう。
「そんなに怯えるなよ」
浮かんだ疑問を口に出す前に、男がくっくっと喉を震わせた。棗は男に視線を戻し、おずおずとソファに腰かけた。
「……どうして私が、誰かを殺すと思ったんですか」
「違うのか?」
「違、くは、ないけど……」
「俺には分かるんだよ。そういうやつが」
男は背中をソファから離し、棗の方へ身を乗り出した。
「俺は『殺され屋』の朝霧」
「……殺され屋?」
聞き慣れない言葉に、棗は顔をしかめた。
「殺し屋じゃなくて?」
「殺したいほど憎いやつを他人の手で殺されて、あんたは満足できるのか?」
朝霧と名乗った男は、嘲るように笑った。何もかも見透かしたような瞳だ。
「誰かを殺したいと思っても、いざってなると殺せないやつの方が多い。俺はそんな人間の手伝いをしてるんだ。証拠が残らず、確実に殺せる方法を教えてやる。それが俺の仕事」
キッチンから、先ほどの少女がふたり分の紅茶を運んできた。「あ、ありがとう……」礼を言っても、少女は棗と目を合わせない。テーブルに紅茶を置き終えた少女は、そのまま朝霧の隣へ腰を下ろした。
この少女は一体何なのだろう。隣り合うふたりを見比べて、棗は首を傾げた。「殺され屋」と名乗る物騒な男と、人形のようにかわいらしい少女。恋人と呼ぶには年が離れすぎているようだし、兄妹と呼ぶにも違和感がある。この少女は、朝霧の何なのだろう。どうしてこんなところにいるのだろう。それに、と、棗は体を縮ませた。この少女は、先ほどから全く笑わない。まるで本物の人形のように、表情がないのだ。非人間的なその雰囲気は、朝霧よりもずっとおそろしく感じる。
「で、あんたは誰を殺したいんだ?」
「えっ」
朝霧の問いに、棗の肩が飛び跳ねた。朝霧の冷たい瞳が、鋭くこちらに向けられている。すべてを見通す暗い瞳が、ナイフのように心臓を抉る。
もう、隠すことはむだなのだ。この男が誰でも、「殺され屋」がどんなものだとしても、もう、すべて見透かされてしまっている。取り繕うことを諦めて、棗は口を開いた。
「恋人、だった人」
「何で?」
「結婚まで考えてる人だったの。中学生の頃から付き合ってて、同じ大学に進学したのに、突然別れようって言われた」
「それだけ?」
「……それだけ、じゃ、ないけど」
棗はむっと口を曲げ、うつむいた。それだけ、と言われれば確かにそうだ。だがしかし、すきな人に裏切られるつらさは、「それだけ」なんて言葉では済まされない。「愛している」とささやいておきながら、別の女を想っていたのだ。別れを告げられたことよりも、嘘をつかれたことが、棗にとってはつらかった。
朝霧は「ふぅん」とつぶやいて、興味深そうに頬杖をついた。
「どうやってそいつを殺すつもり?」
「どう、って……」
「自分ひとりの力で、殺せる? 絶対に?」
「それは……」
棗はぐっと押し黙った。覚悟はある。憎悪もある。だが本当に彼を殺せるかと言われたら、簡単にうなずくことはできなかった。別れの衝撃が衝動に代わり、ナイフを持ち出してしまったが、こんな衝動的な殺意では、彼の心臓を貫けないだろう。こんな、弱い、殺意では。
「手伝ってあげようか」
黙り込んだ棗に、朝霧は優しく提案した。
「あんたの殺意を、少し分けてくれよ」
「……本当に、手伝ってくれるの?」
棗は疑いをぶつけるように、その優しい笑みを睨んだ。「殺され屋」という怪しげな職業も、この男の穏やかな笑みも、まだ自分には信じられない。助けを求めるように、隣にいる少女を見た。少女は棗の方を見向きもしない。虚ろな瞳を虚空に向け、人形のように佇んでいるだけだ。
「あんた金持ってなさそうだし、3万円でいいや。学生割引な」
「え……お金、取るの?」
「仕事だからあたりまえだろ。もし失敗したら、金は取らない。それでいいか?」
でもまぁ、と朝霧は続けた。
「本気で殺す覚悟がないなら別だけど」
かっと頭に血が上った。この心に生まれた憎しみを、苦しみを、否定されたような気がした。
もしここで帰ってしまったら、自分を裏切ったあの男に屈したことになる。悪いのは彼の方なのに、自分だけが傷ついたまま、泣き寝入りをすることになるのだ。見知らぬ女と笑い合う、翔吾の姿を思い浮かべた。
殺してやる。
獣の呻き声が聞こえる。痛みを殺し、憎しみに身を委ねた醜い獣が、この身を破って、外側に出ようとしている。
「……分かった」
自分でも驚くほど低い声が出た。まるで自分の中にある憎しみが意志を持ち、棗の体を操作しているみたいだ。朝霧は満足そうにうなずいて、にやりと口元を上げた。
「契約成立だな」
軽い口調でそう言って、朝霧はソファから腰を浮かせた。
まるで連鎖反応のように、隣の少女も立ち上がった。棗も慌てて立ち上がり、朝霧のあとを追いかけた。
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