第1話 藍崎棗

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 先ほど上ったばかりの階段を、逆再生のように下りていった。ふたりに連れられるがまま、2階に足を踏み入れる。そこは3階よりも殺風景な空間だった。まるで使われていない倉庫のようだ。家具一つ置かれていない、広々とした場所。朝霧は部屋の真ん中で足をとめ、振り返った。 「さっき俺のこと『殺され屋』って言ったけど、あれ、嘘」 「え?」 「俺はマネージャーみたいなもんなんだ。こいつが『殺され屋』の白雪」  こいつ、と示された先にいたのは、先ほどから朝霧の隣にぴったりとくっついている少女だった。  この子が、「殺され屋」? どう見ても小学生くらいの、この子供が? 棗はまじまじと、白雪と呼ばれた少女を見た。白雪は相変わらずこちらに目を向けない。本当に生きているのか疑問に思うほどだ。 「じゃあ手始めに」  棗の注意を自分に戻すように、朝霧が声を大きくした。右手の人差し指を立て、ゆっくりと、白雪の方へ向ける。まるで演劇のように大げさに。棗の目を、逸らさせないように。 「こいつのこと、殺してみろよ」 「……え?」  何を言われたのか、分からなかった。 「今、何て?」 「白雪のこと、殺せって言ったんだ」 「……何で?」 「練習だよ。ほら」  軽い口調でそう言って、朝霧は棗にナイフを差し出した。棗のものより少し大きい。鋭利な銀色が、自己を主張するようにきらりと光った。  呆然とする棗の手に、むりやりナイフを握らせる。右手に光るナイフと、表情のない少女を見比べた。白雪は朝霧の言葉に抵抗する様子もなく佇んでいる。お姫様のような白い服。その下にあるやわらかな肌に、この鋭い刃を突き刺せと言うのか、この男は。 「できるわけ、ないじゃない……」  震える声でそう言うと、朝霧はふしぎそうに首を傾げた。 「何で?」 「何でって……あたりまえでしょ! こんな小さい子、殺せるわけないじゃん。私、別にこの子に死んでほしいなんて思ってないし……」 「恋人殺すのとこいつを殺すの、何が違うんだ?」  声色が、少し低くなった。 「その恋人の命より、こいつの命の方が重いの?」  責めるような朝霧の口調に、棗は言葉が見つからなかった。殺意を持っている限り、どんな反論も正当化できない。逃げるように目線を落としたら、右手に握ったナイフが、逃がさないよ、とでも言うように、否応なく視界に飛び込んできた。 「ひとり殺すのもふたり殺すのも、人殺しには変わりないんだ。だったらいいだろ」 「でも……」 「大丈夫だから。早く、殺しちゃえよ」 「大丈夫って……」  何が――?  そう尋ねようと顔を上げた時、白雪が、そっと棗の手を取った。透けるように白い、小さな手。まるで死人のように冷たい。白雪の虚ろな瞳が、初めて棗を映した。  きれいな瞳だ、と思った。雲のない空のような、澄んだ青色。まるで小さな宝石だ。見つめていると、吸い込まれそうになる。天使に魅入られたように、心が傾いた。一歩も、動けなくなった。 棗を見つめていた白雪の口元が、少しだけゆるんだ。安心させるように、ふわりと笑ったような気がした。瞬間だった。  ――ぶすり。 「……え?」  ナイフが、肌を抉る音がした。  二つの宝石から口元へ。口元から、胸へ。ゆっくりと、視線を下ろしていく。  白雪の白い服が、燃えるような赤に染まっていた。ぽたり、ぽたり。コンクリートの床に、雨粒のような血が落ちていく。視界を赤く、侵していく。  棗の右手にあるナイフが、白雪の胸元にずぶりと沈み込んでいた。白雪が自ら棗のナイフを胸に刺したのだ。  ひ、と短く声を上げ、棗はナイフの柄から手を離した。支えをなくした白雪の体はぐらりと揺れ、人形のように崩れ落ちた。床に赤い血だまりが広がる。つい今し方まで輝いていたきれいな瞳は、ぽっかりと穴があいたみたいに空虚なものになっていた。 目の前に広がる現実から逃れるように、棗はたじろいだ。叫び声を上げそうになる口を両手で覆う。足が、壊れたようにがたがたと小刻みに震え始めた。  一体何が起こったのだろう。なぜ白雪は倒れているのだろう。天使のようにやわらかな顔立ちは、記憶の彼方にしか残っていない。雪のように白い肌も、もう赤黒い血で汚れてしまった。お姫様のような白い服も、血だまりの中では台無しだ。  自分が、殺したのだ。  認めたくない現実感が、体の奥底からじわじわと湧き上がってきた。意図的ではないとはいえ、棗の持っていたナイフが、確かに白雪の体を貫いたのだ。その証拠に、まだ右手に残っている。ナイフが肉へと沈み込む、ねっとりとした感触が。 「なんとなく分かったか? 人を殺すってことがどういうことか」  震える棗とは反対に、やけに冷静な声色で朝霧が言った。朝霧の顔には何の感情も浮かんではいない。死んだ白雪を憐れむ様子も、棗を慰める素振りも見せない。 「今日はここまでにしといてやるよ」  棗は正気を疑うように、飄々と話す男を見た。この男は何を言っているのだろう。どういうつもりなのだろう。だが朝霧は、その問いに答えることなく、口の端をゆるく上げた。 「次は、自分から刺せよ」  その微笑みはどこか、白雪と似ていた。
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