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結局一睡もできないまま、棗は新しい朝を迎えた。昨日と同じ灰色の空。棗の心も同じように濁ったままだ。
気だるい体を動かして、大学へと向かった。人を殺したのに講義に出るなんて、罰当たりなのかもしれない。だが今は、昨日のことを考えたくはなかった。「殺され屋」と名乗る男。人形のような少女。気が狂いそうなほどの、赤。こうして普段と変わらず大学に行けば、非日常的な昨日の出来事が、日常の色に染まるような気がした。
もう、忘れよう。翔吾への殺意も昨日の出来事も、なかったことにするのだ。この痛みはいつか癒されるだろう。心を抉るこの憎しみも、消化される日が来るだろう。
「おはよ、棗」
教室に入ろうとしたら、七海に肩を叩かれた。生気のない棗とは反対に、七海は今日も輝いている。艶やかな長い髪。おしゃれなワンピース。眩しさに目を細めながら、棗は「おはよう」とぎこちなく笑った。
「まだ暗い顔してる。さっさと忘れなよ!」
「うん、大丈夫。ありがと」
七海のようになりたいな。明るく笑う彼女を見て、棗は羨望の思いを抱いた。友だちが悩んでいたら手を差し伸べる、そんな明るくてかわいい女の子に。
七海と出会ったのは1年前。大学に入学したばかりの頃だ。友だちがいなかった棗に声をかけてくれた。そんな些細なことがきっかけだった。その小さな出来事に、彼女の笑顔に、棗は救われたのだ。明るくてかわいい七海。メイクだって上手だし、ファッションセンスだってある。彼女に惹かれる男もあとを絶たない。そんな七海の1番近くにいられることが、棗は誇らしかった。
1限目の講義のわりに、教室は多くの学生で溢れ返っていた。まだ年度の初めだからかもしれない。ゴールデンウィークが過ぎる頃には、教室が広すぎると思えるくらい生徒が減るだろう。ふたりは1番後ろの席に座った。
「棗、先週この講義出た?」
「うん、出たよ」
「ほんと? 私、先週出てなくてさ……よかったらレジュメ、コピーさせてもらえる?」
「分かった。じゃあ、明日持ってくるね」
「ありがと、棗! だいすき」
大げさだな、と肩をすくめ、棗は七海の笑顔に見惚れた。まるで小さな子犬のようだ。もし七海に尻尾がついていたら、きっと全力で左右に振っているだろう。
「あ、愛梨だ」
教室の入口を見た七海が、つぶやいた。棗もつられて振り向くと、背の低い、ショートカットの女がちょうど教室に入ってきたところだった。
「おーい、愛梨!」
七海は高く右手を上げ、大きく左右に振った。棗も小さく手を上げて、口の端に笑みを作る。瀬川愛梨はふたりに気づくと、苦々しく表情を歪めた。まるで嫌なものを見たかのように眉をひそめ、唇を噛み締めたあと、愛梨は1番前の席へと歩いていった。
「行っちゃったね……」
愛梨の背中を目で追いながら、棗は浮かべた笑みを引っ込めた。やり場のない手を膝に落とす。七海は困ったように頬杖をついた。
「最近付き合い悪いよね、あの子」
「うん……」
2ヶ月ほど前までは、愛梨も隣に座っていた。昼飯だって3人で食べていた。それなのに突如、愛梨はふたりから距離を取るようになったのだ。喧嘩をしたわけでもない。何か、気に障るようなことをしてしまったのだろうか?
前方の扉から、教授がだるそうに入ってきたので、棗はそれ以上考えることをやめた。
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