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「棗」
講義が終わり、廊下を歩いていた棗は、唐突に後ろから名前を呼ばれた。振り返った先にいた人物を見て、棗はぎょっと目を見開いた。
「愛梨?」
愛梨は先ほどと同様、険しい表情を浮かべていた。先ほどは無視したくせに、どうして声をかけてきたのか。
「ちょっといい?」
「う、うん」
浮かんだ疑問を言葉にする前に、愛梨は棗の手を取り、建物の外へと連れ出した。満開の桜の下に行くと、桃色の花弁が風に急かされてはらはらと舞い降りてきた。校舎から離れたこの場所には、喧騒も届かない。ここだけ世界から隔離されたかのように、穏やかな空気が流れていた。
「どうしたの、いきなり」
頭に積もる花弁を振り払いながら、棗は目の前にいる友に問いかけた。愛梨の表情は相変わらず暗い。こちらがいくら笑みを作っても、瞳に映してさえくれない。愛梨は視線を地面に留めたまま、スカートの端を強く握った。
「彼氏……斎賀君とは、まだ続いてるの?」
「え? ああ……ううん。別れたの。すきな人ができたって、振られちゃった」
どうして、彼の話をするのだろう。もう忘れようと決めたのに。傷ついた心を悟られないよう、作り笑いを浮かべて髪を撫でた。
「でも、もういいの。もう終わったことだもん。七海だって慰めてくれたし、もう……」
「七海のことなんだけど」
まるでテレビの音量を上げたかのように、愛梨の声が大きくなった。地面に落としていた視線を上げ、棗をまっすぐに見つめる。
「言おうかどうか迷ったけど、言うべきだと思って」
「……何を?」
ざわ、と風が吹き、桜の花びらを一斉に散らせた。ふたりの間を隔てるように、桃色の花が散っていく。ざわつく木々に同調するかのように、棗の鼓動も速くなる。
「2ヶ月くらい前に、私見たの。七海と斎賀君が、一緒にいるところ……」
「……何、それ?」
「これ」
愛梨はポケットから携帯電話を取り出し、ためらいがちに棗に差し出した。見たくない。見てはいけない。そう叫ぶ心とは反対に、棗の両眼は大きく見開かれていた。
携帯電話の画面に映る男女。仲睦まじく体を寄せ、手を繋いで歩いている。それは棗のよく知る人物――元恋人の翔吾と、七海だった。
冷たい汗が額に滲むのを感じた。説明を求めるように愛梨を見たけれど、本当は、聞かなくても分かっていた。認めたくなかった。愛梨は同情を声色に乗せ、棗の手から携帯電話をそっと戻した。
「……棗。七海と付き合うのは、もうやめたほうがいいと思う」
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