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一ノ瀬七海は誰からも愛される美少女だ。ふわふわとウェーブした髪。大きな瞳。すらりと伸びた長い手足。誰とでも話せるその明るさ。太陽のように輝くその笑顔。だがその一方で、七海には嫌な噂があった。七海は平気で嘘をつく、人を裏切ることに抵抗がない、非誠実な人間なのだ、と。
棗が羨望に邪魔されて気づけなかった本質を、愛梨は見抜いていたのだ。だからこそ距離を取っていたのだと言う。棗に話すべきか決心がつかず、2ヶ月も黙ったままでいてしまったと。
――殺してやる。
枯れかけていた殺意の花が、再び息を吹き返したのを感じた。
すべての講義を放り出して、棗はキャンパスを飛び出していた。殺してやる。殺してやる。街の中にあるショーウィンドウに映る自分がささやいてくる。信号が、棗の背中を押してくる。速く進め、あの男の元へ。殺意の花が枯れないうちに。
人の波間をすり抜けて、あの路地裏へ向かっていた。何が正しいとか、間違っているとか、そんなことはどうでもいい。大切なのは自分の気持ちだ。溢れる涙をぐっと堪えて、棗は強く唇を噛んだ。あの男が、女が、憎らしくてたまらないのだ。
昨日訪れたばかりのビルに着き、3階に続く階段を上った。沈黙する扉を叩き、返事を待つ。だがいつまで経っても、扉が開く気配はない。留守なのだろうか?
おそるおそるドアノブに手をかけ、中をのぞき込もうとした時。
「……お客様ですか」
突如背後から聞こえた声に、棗の肩が飛び跳ねた。慌ててドアノブから手を離し、声がした方向を振り向く。
「ひっ……」
そこにいたのは、存在するはずのない人物だった。
ショートボブの髪。大きなリボン。海のように青い瞳。白い肌。紛れもなく、昨日自分が殺した少女――白雪だ。
心臓が痛いくらい飛び跳ねている。なぜ、白雪は生きている? 胸元を見ても、怪我をしている様子はない。白い服は、もう血で染まってはいない。
白雪は棗を見上げたまま、ふしぎそうに小首を傾げた。
「紫苑に用事ですか」
「し、しおん……?」
紫苑、というのは朝霧の名前だろうか。昨日の男を思い出し、棗は無我夢中で首を縦に振った。納得したのか、白雪は棗の背にある扉を押し、「中へどうぞ」と棗を部屋に招き入れた。
昨日と同じ、殺風景な部屋だった。朝霧はどこかに出かけているようだった。棗にソファへ座るよう促して、白雪はキッチンへと向かった。昨日と同様、紅茶の用意を始めるようだ。精一杯背伸びをして、棚からティーカップを取り出している。棗は戸惑いながらも、素直にソファへと腰を下ろした。
自分の身を守るようにカバンを抱き締めながら、棗は昨日死んだはずの少女を目で追った。白雪は小さな体を動かして、慣れた手つきでお湯を湧かしている。確かに、生きている。
この少女は何なのだろう。なぜ、生きているのだろう。あの時確かに、ナイフが心臓を貫いたはずなのに。
紅茶を入れ終えた白雪が、よろよろとした足取りで棗の方へ歩いてきた。
「ありがとう……」
昨日のように礼を言うと、白雪も昨日と同様、棗の向かい側のソファに腰かけた。
どうしていいのか分からずに、棗は灰色の天井を見上げた。寂れたコンクリートの天井に、古ぼけた電灯がぶら下がっている。風もないのにゆらりと揺れ、今にも棗の頭を殴りに落ちてきそうだ。
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