第1話 藍崎棗

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第1話 藍崎棗

 春は出会いの季節だと、誰かが言っていた。長い冬を乗り越えた太陽が、あたたかな日差しを地上に降り注いでいる。桃色の花弁が景色を彩り、道行く人の目を楽しませている。真新しい制服に身を包んだ学生。スーツを着てぎこちなく歩く新社会人。出会いという変化を含んだ人々が、カフェの窓の右から左へ、絶え間なく流れている。  窓側の席を選んだのは失敗だった。首筋にまとわりつく髪を払って、藍崎(なつめ)はアイスティーを喉に流し込んだ。いくら口内を潤しても、照りつける日差しが容赦なく肌を乾かしていく。 「えっ、別れたの?」  棗の言葉を聞いて、一ノ瀬七海は大きく目を見開いた。甲高い声が、狭い店内に鳴り響く。客の話し声とBGMにかき消され、あとには七海の驚愕した表情だけが残った。 うん、と苦々しくうなずいて、棗は口の端を弱く上げた。自分が口にした言葉を繰り返されると、まるでナイフで胸を抉られたような気分になる。現実を、思い知らされる。  「何で? あんなに仲よしだったのに」 「……すきな人が、できたんだって」  昨晩聞いた台詞を言葉にしたら、つい今し方潤した喉が、再び乾いていくのを感じた。 「だから、別れてって」 「えっ、それって浮気ってこと?」 「分かんない」 「浮気だったら、最低だよね。別れて正解だよ」  目の前にいる友人は、自分の言葉を肯定するように何度も大げさにうなずいて見せた。そのたびに、ウェーブしたツインテールがふわふわと揺れる。その何気ない動作が、女の子らしいな、と思う。コップを包む小さな手とか、透けるように白い肌、とか。こういう人間を目の前にすると、自分がひどく不格好に見える。途端に居心地が悪くなって、棗はうつむいた。溶けた氷のせいで薄まったアイスティーに、見知った女が映っている。パサパサに痛んだ髪の毛と、虚ろな瞳の、みすぼらしい女。  ――殺してやる。  獣のような唸り声が、耳の奥で低く響いた。ゆらり。水面に波紋が広がって、女の表情が醜く歪んだ。ばかにしたように目を細め、口が三日月のように形を変えていく。 「……大丈夫?」  はっとして、顔を上げた。七海が、心配そうにこちらをのぞき込んでいる。獣の声を振り払い、棗は慌てて笑顔を作った。 「うん、平気」 「ラブラブだったもんね。そりゃ、すぐには心の整理つかないよね」 「……正直、まだ実感湧かないの」  偽りの笑みが自分の顔から薄まっていくのを感じながら、棗は小さな声で言った。 「中学生の頃から付き合ってたし、このままずっと一緒にいるんじゃないかって、勝手に思い込んでて……でも、それは私だけだったんだよね。ばかみたい、ほんと。こんなあっさり終わっちゃうなんて……」  七海が同情のこもった眼差しを自分に向けていることに気づき、棗はそれ以上言葉を紡ぐことをやめた。これ以上何か口にしたら、心にある虚しさの花に、ますます水を与えてしまうような気がした。慰められれば慰められるほど、自分が惨めになっていくような気がした。黙り込んだ棗を見て、七海は大げさにため息をついた。 「あーあ、斎賀君ってばかな男だよね。私が男だったら、絶対棗とは別れないのに。あんなやつ、死んじゃえばいいんだよ!」  「……ありがと、七海」  眉を下げて微笑むと、七海も同じように笑い返した。同じ笑顔でも、全く違う。暗い、影のある棗の笑みとは反対に、七海の笑顔は、春という季節にふさわしく、きらきらと輝いている。ああ、眩しいな。心の中でつぶやいて、棗は再びアイスティーに目線を落とした。  ――殺してやる。  男に捨てられた惨めな女が、こちらに向かって、ささやいてくる。背徳的な感情が、心の中を黒く染める。棗は邪念を振り払うように、まずい色をしたその液体を、喉の奥に流し込んだ。
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