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樹は目を瞬かせながら身体を起こす。どうやら寝台に突っ伏していたらしい。周りを見回すと、窓の外はすっかり暗くなっていた。
そして、夢子はいなかった。
物音がした方を見ると、寝台の上の春子が身体を起こそうとしていた。樹に手を貸されながら起き上がった春子は、穏やかに笑いながら皺のある手で樹の手を握った。樹はそんな風に笑う春子を見るのは初めてだった。
「ありがとう、樹さん」
「はい、春子おばあさま」
樹は笑ったが、すぐに夢子のことを思い出して俯いた。春子はそんな樹の肩に触れる。
「きっとすぐそこにいるわ」
「……はい!」
春子に励まされた樹は、夢子を探すために部屋から駆け出した。入れ違うように、香一郎が入って来る。春子を見て驚き、そして安心したように目元を緩めた。
「起きられるのか」
「ええ」
重たい沈黙が二人を包む。春子は窓から見える桜の木に目をやった。相変わらず見事な桜だった。ふと、鈴のような愛らしい声が「頑張って」と言った気がした。
「ごめんなさい」
目を見開いた香一郎は、次第に穏やかな顔つきに戻ると、側にあった羽織りを春子の肩にかけた。
「あの桜を伐るだなんて、私……」
二人は噂のとおり喧嘩をしていた。春子があの桜の木を伐ろうとしたからだ。
それと同時に、折悪く春子の持病が悪化し倒れてしまったのだ。
春子は長い間、香一郎が仕方なくあの桜を植えたのだと思っていた。
桜の木は手入れが大変だ。香一郎が嫌いな毛虫もつく。もし、香一郎が迷惑と思っているのなら、いっそ伐ってしまう方が良いと春子は思ったのだ。
けれど、実際は違っていた。
「ありがとう、香一郎さん」
「……ああ」
二人はまた黙り込んだが、今度は決して嫌な沈黙ではなかった。さっと春風が吹き、桜の花びらが舞う。
「夢ちゃんがね、連れてきてくれたのよ」
春子は呟くと、そっと瞼を閉じた。
長い年月にさらされて、忘れてしまっていた妹の笑顔がはっきりと見えた。
桜の木へと向かって、花びらで形作られた小さな足跡が続いている。どこか、嬉しそうな足取りだ。
足跡を追いかけてきた樹は、舞っていた花びらを捕まえ、優しく握り込んだ。誰かが笑った気がして、慌てて木を見上げると、からかうように桜の木が枝を揺らした。
東小路家の屋敷には、美しい庭園がある。
庭園に数多ある花々の中でも、ひときわ見事な桜の木。その花明かりはまるで、この庭をまるごと包み込むようだった。
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