花明かりと足跡

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 また強い風が吹いた。三人が目を開くと、そこは元の大座敷だった。  ハルがすっかり大人の姿になっていても、樹はもう驚かなかった。  夢子がハルの手を取る。荒れていた手はすべすべとしていた。髪もつやつやで、誰が見てもあの田舎娘のハルだとは思わないだろう。 「樹さん」  ハルはもう片方の手を樹に差し伸べた。三人はハルを真ん中にして、手を繋いで歩き出す。  この冒険は、次の部屋が最後だった。夢子たちは、手すりのある階段を上り、廊下の突き当りの部屋の扉の前に立ち止まる。 「春子おばあさまの部屋だ」  樹が呟く。この洋室は、この屋敷で一番小さい代わりに桜の木が一番側に見られる。本当ならば、中では春子が病に伏せっているはずの部屋だ。 「行こう」  樹の合図に合わせて、夢子は扉を開く。  そこは、この屋敷で一番小さな洋室だった。  しかし、寝台に春子の姿はない。夢子は窓辺に寄って外を覗き込む。庭に植えられた桜の木が、ふわふわと彩雲のような花を咲かせているのが見えた。  どういうことかと三人が顔を見合わせたその時だ。 「こら!」  怒ったハルの声がした。三人は慌てて廊下に出て、騒ぎになっている方へと駆けていく。  そこは庭に面した縁側だった。樹にそっくりな男の子がハルに叱られてべそをかいている。叱られている理由はすぐにわかった。近くの白い壁いっぱいに、黒い墨で落書きがしてあったからだ。 「ここは帳面ではないと言っているでしょう! 自分で消しなさい!」  ハルは女中が持っていた雑巾を、俯いている男の子の手に握らせ、ツンとした顔で廊下を歩いて行った。残された男の子はしゃくりあげながら、言いつけ通り壁の落書きを雑巾で拭き始めた。 「私ったら、あんな顔であの子を叱ったのね。まるで鬼みたい……」  自分の怒り顔に驚いて肩を落とすハルに、夢子と樹は二人そろって苦笑いを浮かべる。壁に描かれた鬼の落書きが、怒ったハルの顔にそっくりだったからだ。  不意に、庭の方で人影が動く。  桜の木の側で、香一郎が心配そうに男の子を見ていた。しばらくして、女中がこっそり手を貸すのを見ると、小さく微笑んで桜の木に向き直る。 「こりゃあ別嬪さんだ」  香一郎の後からやって来た庭師が、桜の木を見上げて満足そうに笑った。 「先日、この木を世話した庭師をうちにも呼びたいと言われたよ」  肩をすくめた香一郎に、庭師は豪快に笑った。その笑い声につられて桜の木がさわさわと枝を揺らす。 「俺ぁご当主に庭仕事なんかさせて、冥土の親父にぶちのめされやしねぇか、今っから心配ですよ」 「悪いな。でもこの桜だけは譲らない――春子の、大事な人だから」  薄暗くなってきた庭で満開の桜がぼんやりと輝く。舞っていた桜の花びらをそっと捕まえ、香一郎は目を細めた。 「そんな、私、知らなかった……」  樹はハルを見てぎょっとした。今にも倒れそうなほど青褪めていたからだ。思わず樹はハルの背に触れる。ハルは小さく呻いて、顔を覆ってしゃがみ込んだ。樹は労わるようにその背中をさする。  夢子はひとり、穏やかに微笑んでいた。 「大丈夫よ。まだ間に合うわ」 「夢子、さん」  春子が何か言いかけたその時、桜吹雪が三人を覆いつくす。心から嬉しそうな笑顔の夢子が、樹に向かって手を振っていた。 
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