三峯行

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三峯行

 六月の最終日曜日。 陽子は、結婚式に出席する姉夫婦から留守を預かっていた。 やはりジューンプライド。 梅雨の時期なのに、結婚式場は大繁盛のようだった。 結婚式と聞いて真っ先に思い出すのは、翔と摩耶だった。 二人はもう新婚旅行から戻っているはずだった。 だから陽子は密かに、翔を介しての翼を待っていた。 陽子は確かにあの日、翔の体の中に翼を感じた。 翔に憑依してまで自分に逢いに来てくれる、翼の愛を感じた。 逢えなくなった今だからこそ、陽子は翼に逢いたくて逢いたくて仕方なかったのだ。 夫婦になった後、初めてこの部屋に通された時翼が付けた柱の記。 そんなキズ一つ一つが思い出と重なる。 『僕のこと、ずっと見ててくれる?』 もう充分大人の翼。 それなのに…… 陽子のために成長したいと翼は願った。 自分の目標を教師になることと定め、懸命に勉強をしていた翼。 思い出す度胸が熱くなり身を焦がす。 陽子は日々翼との思い出の中に生きていた。  そんな時、堀内家の玄関のチャイムが鳴った。 陽子がモニターで確認すると、ドアの向こうに翔が立っていた。 (翼が帰って来た!) 陽子の動悸が激しくなる。 噂をすれば何とやら…… (あー! この日をどんなに待ちわびたことか!) でも陽子は、逸る気持ち落ち着かせるために深呼吸をしてから画像に映る翔に向かった。 「翼なの? それとも翔さん?」 インターフォンごしに陽子が恐る恐る聞く。 翼であってほしかった! 翔の体でも良かった。 翼の魂で帰ってほしかったのだ。 優しかった翼。 きっと自分のために戻って来てくれる。 陽子はずっと、そう思いながら翼を待ち続けていたのだった。  「俺、翔。ちょっと出られないか?」 でも……。 翔はそう言う。 「うん分かった。ちょっと待っててね」 陽子は少しがっかりしながら、バッグから鍵を出し外に出る。 「何処へ行くの?」 恐る恐る聞く陽子。 「中川」 そっけなく翔は言った。 「私の実家?」 翔が頷く。 陽子は鍵を閉めながら、実家に行く旨のメモを郵便受けに入れた。  「これから中川で犯人捜しだ」 秩父駅に向かうバスを待ちながら翔が言う。 「そう言うことは、私達が犯人だと思っている?」 翔は頷いた。  バスの車内で陽子は、翔の中の翼を見つめた。 でもそれはたてまえ。 翔が何をするか判らなかったからだ。 翔は、そんな陽子を無視して摩耶の花嫁姿の写真を見ていた。 (やはり、翼……じゃないのね) 陽子は悲しくて…… 寂しくて…… それでも翔の中の翼を見続けようと決めていた。  翔の住む家からは御花畑駅の方が近かった。 だから翼は何時も其処から乗車していたのだ。 でもバスは其処にはもう通ってない。 勝の話では、昔は坂氷バス停の先を市役所方面に直進していたそうだ。 それはまだ坂氷から市役所へ向かう道が、一方通行ではなかった時だと言っていた。 お花畑駅横を通り、メインストリート・秩父神社を抜けて秩父駅までコの字を描くように行っていたと言うことだった。 でも今は交通事情等もあり通らなくなったらしい。 つい最近、市役所の北側の通りが相互通行にはなったようだけど……  坂氷バス停先を右斜めに曲がる。 そのずっと先に踏み切りがある。 其処を渡とその先の信号を右に折れる。 何時か翼と行った秩父神社横を通り、バスは秩父駅に向かった。 駅前はロータリーになっていて、真ん中にバス停があった。 《降りる》ボタンを翔が押しす。 バスは静かに秩父駅前の停留所に到着した。 ドアが開き、翔は陽子の後に付いた。 逃げられなくするためらしかった。  秩父駅でバスを降りた翔は、その足で自動券売機に向かった。 そんな時でも陽子と離れない。 陽子は既に諦めていた。 翔と、翔の中で眠る筈の翼の魂と向かい合う。 そのために……。 必死に恐怖に打ち勝とうとしていた。  秩父駅の周りでは何時か翼と乗ったSLが到着するのを待ち構えて、カメラを用意している人もいた。 その到着の大分前に出る電車。 二人はそれに乗った。  「あれもそうか?」 西武秩父駅を眺めていた翔が言った。 駅を過ぎた辺りに此方を見ていた人がいた。 陽子は頷いた。  「まあ翼さん」 何時もなら仕事に出掛けているはずなのに、節子は珍しく家にいた。 (やはり翔さんだと気付かないのね) 普段と変わらないその態度に、陽子は何故かホッとした。 「あ、そうそう。この前の探し物は見つかった?」 節子は言ってしまってからハッとして、口に手を当てた。 「この前此処に来たの?」 陽子の問い掛けに悪びれることもなく頷く翔。 何かを決意したかのように動じない様子に陽子はそら恐ろしさを感じていた。 陽子が逃げないようにするために、ずっと手を離さない翔。 「相変わらず仲がいいね」 節子の言葉にハッとして、慌てて陽子は翔の手を振り払った。 「何もそんなに慌てなくても……。今日は車じゃないんかい?」 「車はお義兄さんが乗って行ったの。同僚の結婚式だって」 「夫婦仲良くかい?」 節子の質問に陽子が頷く。 「天下一品よね。あの夫婦仲の良さは」 陽子が言うと、節子が笑った。 「何言ってるの。アンタの所も相当なもんだよ」 節子は笑いながら二人の肩を叩いた。  「お母さん、来た早々悪いけどちょっとトイレ借りていい?」 陽子はそう言いながら、又繋がれた翔の手をそっと外した。 (まさか此処までは来ないだろう) そうは思った。 でも本当は心配だった。 陽子は玄関を出る時持っていたメモ帳に遺書を書き出した。 《自分はもしかしたら殺されるかも知れない》 《きっと翼も何処かで殺されている》 (真実を母に――) もしかしたら、翔が確かめるために自分の後から入るかも知れない。 それが不安だった。 それでも陽子はペンを走らせた。 (お母さんの愛で……翼を思うその真心で、翼が甦ってくれたら嬉しい) 身勝手だと思っていた。それでも母にすがり付きたい陽子だった。  「此処できっと殺されたんだ。死亡推定時間からみても間違いない」 駐車場で翔が言う。 「車にシートを敷いてカーペット……」 「ふふ、馬鹿ね」 陽子は翔の無鉄砲な推理を否定した。 「御両親共、自ら車に乗ってくれたなら犯行は可能だけど」 「殺されるって分かっていてそれはないな」 翔は腕を組んだ。 「何かあるはずだ。きっと此処だよ。絶対此処なんだよ。電気製品で体を暖めていないんだから」 翔は独り言を言い始めた。 「一体どうやって殺したんだよ」 不気味な目で陽子をじっと見つめてる翔。 ――ゾック!? 陽子は震え上がった。 それは入試の合格発表の時と同じ感覚だった。 でも平気な顔を装った。 それが精一杯だった。 でも翔は動じない陽子の態度を見て、此処が殺人現場ではないと感じたらしかった。 翔は本当は知っていた。 両親を殺したのは自分だと言うことを。 それなのに、殺害方法もその現場さえも解らなかったのだ。 でも、どうしても翼を犯人に仕立て上げなければならなかった。 摩耶を殺人者の妻にしないためだったのだ。 翼は翔になる時に摩耶にも睡眠薬を飲ませていた。 そのために摩耶は熟睡してしまったのだった。 翼と翔。 同一の体でありながら、精神は全く別の人格だったのだ。  二人は武州中川駅に向かった。 陽子の実家の駐車場が殺人現場ではないと感じた翔。 でもあのステーションワゴンなら可能だと思った。 だから此処へきたのに…… 翼と陽子のアリバイ。 此処に確かに居たから証明された。 だから彼処で殺害したと思ったのだった。 追求を諦めて、もう一つの目的を果たすためだった。  三峰口到着をカメラに収めようとするためなのか? 三脚は既に用意して席に座っている人達が大勢いた。 「これもSLの撮影をするためか?」 又腕を組む翔。 武州日野・白久・三峰口。 電車は否が応でも陽子を運ぶ。 その先に何が待ち構えているのか。 陽子はその答えを知るのがとてつもなく怖かった。 それでも翔と、其処に住むであろう翼を陽子は見つめ続けた。  あの日間に合わなかったバスに乗る。 その車窓に映る景色は、懐かしい故郷の香りがした。 そして嫌がおうでも、陽子は翔との決着の場へと運ばれて行くのだった。  その頃上町の日高家の近くでは、狭い路地に入って来た植木屋の車がユーターン出来ずに困っていた。 何度も何度もハンドルを切り返す運転手。 それを見かねた摩耶は、駐車場を使って良いと申した出ていた。 早速自分の車を奥へと移動させた。 昔はアパートだった日高家。 家だけでなく、駐車場も広かったのだ。 殺された孝は其処へ何台かの高級車を並べていた。 本当はそれがやりたくて、この場所に自宅を構えたのだ。 実は数日前に、摩耶と翔が気に入った物だけ残し殆ど処分した後だったのだ。 「奥さん、いやお嬢さんかな? いい人だね。よし! お礼に何か植えてってあげよう」 摩耶は手招きしていた手を止めた。 「うーん。そうだ、南天ある?」 車から降りて来た植木屋に摩耶は声を掛けた。 「あるよ!」 植木屋は手にコンパスを持ち、北東に向かった。 「ところで何故南天?」 「だって難を転化するって言うし」 摩耶は植木屋の質問に答えた。 「いやー、いい事言うね」 そう言いながら庭の隅を掘り出した。 そこはかって陽子を睡眠薬で寝かせた後孝が佇んでいた所だった。  「ギャーー!!!!」 突然植木屋が悲鳴をあげて腰を抜かした。 慌てて摩耶が駆け付けて、植木屋が指差す先を見た。 そこには埋められた翼の小さな指が見えていた。 そしてその指の先には、白骨化した手があった。 翼の指は、その手の上に添えられていた。 まるで握り締めているかのように。  一時間後。 三峰神社のバス停から二人は乗車した。 途中で止まるのは、温泉施設と秩父湖。 その次の大輪停留所で、翔と陽子はバスを降りた。 三峰神社の表参道。 ロープウェイ大輪駅に続く鳥居。 (又どうにか脇をすり抜けなくちゃ) 陽子はそんなことばかり考えていた。 幾つかの土産物屋が軒を並べていた。 まだ営業している店もあった。 陽子の手を引いて歩き出す翔。 仕方なく後に続いて歩く陽子。 知人宅の横を通る。 友達のお母さんと目が合い思わず会釈した。 そんな陽子を翔は睨みつけた。 懐かしさよりも、重苦しさが陽子の気持ちを曇らせていた。  谷にかかる赤い橋…… (あぁ……とうとうやって来てしまった) 言いようのない不安が陽子を襲っていた。 (きっと此処で怖い思いをしたんだわ。そうじゃないと……、そうじゃないと、この気持ちは説明出来ない) 赤い橋を見る度に、言い知れない不安がよぎる。 ミューズパークや鷺の巣に向かう巴川橋。 今宮神社の龍神の池にかかる橋。 それらを元々知っていた訳ではない。 でも恐怖心を抱いていたのは確かだった。  翔は橋の上で、川を覗いていた。 「荒川か……。やっぱり深いな」 ゴツゴツした岩の横に青緑した荒川。 「ここから落ちたら面白いな」 そう言いながら陽子の手を引いた。 「落ちてくれないか?」 甘えるように言う翔。 子供の頃、この橋の上で何度泣いたことか。 陽子は恐怖で震えていた。 不意に、翔が陽子の腕を掴み欄干に体を引き寄せた。 ゾォーとした。 体中を悪寒が走る。 そして忌まわしい記憶に辿り着く。  それは夏のことだった。 三峯神社近くのキャンプ場へ向かう人達が歩いていた。 その時劇は起きた。 その人背負ったリュックが、小さかった陽子の頭に当たり橋の欄干まで弾き飛ばされたのだった。 もう少しで荒川に転落する所だったのだ。 そんな恐ろしい記憶があったからこそ、陽子は此処が苦手だったのだ。  でも記憶はそれだけに留まらなかった。 陽子がこの橋が苦手な本当の理由は、物心が着いた頃まで遡った。 所謂橋飛び……。 自殺だった。 ロープウェイ大輪駅が解体されたことを知らない観光客がいた。廃止されても暫くはそのままだったので撮影スポットになっていたのだ。 行く時は、店の隅にいた陽子の頭を撫でてくれた女性だった。 だから陽子は又撫でて貰おうと思っていた。 そんな陽子の前で、突然荒川に飛び込んだ女性。 陽子はそれを目撃してしまったのだった。 ぼんやりとした記憶が、今鮮明に蘇る。 陽子は橋の上でワナワナと震えだした。 それでも陽子は此処で負ける訳にはいかなかった。 翼のために気持ちを奮い立たせる。 何故三峰神社に二人で行くことを躊躇ったのか? 原因はこれだった。 三峰神社の表参道で喧嘩した男女。 そしてそれにより引き起こされた悲劇。 陽子は知らずに噂と重ね合わせいたのだった。 (母は夫婦円満の象徴だと言った夫婦神。だから私は履き違えていたのかも知れない……) 陽子は自分を納得させるようとしてもう一度翔を見つめた。  翔の心の中で、幾つもの人格が折り重なるように存在しているのが解る。 きっと亡くなった、薫と名乗らざるを得なかった香の魂でさえも翔は受け入れだのだろう。 多重人格。 いや、元々翔は二重人格だったのだろう。 母親を愛する余り憎んだ。 自分ではどうすることも出来ない葛藤を翼を恨むことで回避させていたのではないだろうか? それが、二重三重にもなって心も体も憑依される。 あがけばあがくほど深みにハマる。 「可哀想な人」 陽子はもがき苦しむ翔の内面を見つめていた。  翔は本当は優しい子供だった。 翼の痛みを自分の痛みとするような。 そんな中…… あのオルゴール事件が起こる。 自分の初恋の相手が、こともあろうに翼を好きになったのだ。  派手好きな母が、翔のために企画したバースデーパーティー。 誕生日の一緒の翼も形だけ出席していた。 そうしないと、翼を蔑ろにしていることがバレるからに他ならない。 たったそれだけの理由だった。 その時…… クラスメートが翼に渡したオルゴール。 みんなが帰った後、すぐに母が取り上げた。 翔の物にするために。 本当は欲しくもなかった。 壊れてしまえばいい。 そう思った。  でも…… その時翔の中に別な人格が現れる。 翼を憎む、あの柿の実事件を引き起こす人格が。 優しい翔は、翼を何時も心配していた。 だから、憎むことなど出来なかったのだ。 翔は翼を意識し過ぎて、自分が翼だったらと考えたのだった。 耐えられないと思った。 だから翼を偉いと思ったのだ。 それでも…… 何時かは母が翼の方を向くのではないかと心配した。 その時…… 翔の心は変化したのだ。 母の傍に居たい。 翼に盗られたくない。 そんな理由で、悪魔を住まわせてしまったのだ。  柿を盗った時…… 快感を覚えた。 スリルを感じて興奮した。 でも怖くなった。 母に悲しい思いをさせてしまうと思って…… だから翼が叩かれているのを見て、助かったと思ったのだ。 その時、自分の罪で翼が裁かれるのを平気でみている自分に気付いた。 そして…… 翼に対する優しさは消えていた。 母親の異常な行動で、翼との隔たりを感じた翔。 それ故に翼を心配した。 でもいくら頑張ったとしても、翼の成績にはかなわなかった。 有名私塾に通っている自分が、何もしていない翼に負けたのだ。 次第に翔は翼を憎むようになっていった。  そんな中に現れた別人格。 解離性同一性症。 所謂多重人格の始まりだった。 翔はその心の病の中で翼を作り上げてしまったのだった。 翼もその別人格を自分だと勘違いしてしまっていたのだ。 同じ部屋で同時刻に誕生した異母兄弟の偽装双子。 翼と翔は同じ運命を背負っていたのかも知れない。 翔は本来の自分では憎めない翼を、別な人格でこけおろしたのだった。 それは翔の優しさだった。 母の翼を卑下した態度は、翔の心を蝕んでいた。 傷みが伝わり耐えられなくなった翔は、もう一人の自分を誕生させてしまったのだった。 翔はそれほど慈愛に満ちた子供だったのだ。 麻耶が感じた翔の優しさ。 それが本来の人格だった。 母親が翼を憎んだように、自分も憎まなければいけない。 母親思いの翔が出した答えだった。 だから…… 別な人格に、その役を押し付けたのだった。 母を愛するあまりに…… 愛する母を翼に盗られたくないがために。 でも翔は知らない。 その部分に翼が憑依してしまったことを。 翼は翔が産み出した人格を自分のいる場所だと思い込んでしまったのだった。 そしてその主人格を乗っ取てしまったのだ。 翔は翼になったのだ。  でも陽子は気付いていなかった。 いや、翔さえも…… つい最近まで全く気付いていなかったのだ。 二人が出逢う遥か以前、翼は既にこの世の住民ではなかったという事実に…… もう…… 生きて居なかったのだ。 陽子が生きている今…… その同じ時代の息吹を、翼は感じることさえ出来なかったのだ。 翔は自信を無くしていた。 時々自分が誰なのか判らなくなる。 暗闇の中で何時もさ迷っていたのだ。 翔の精神も翼同様にボロボロになっていたのだった。 翼はあの柿の事件の起きた日に、本当は死んでしまったのだった。 陽子が愛した翼は、翔だったのだ。 初デートでコミネモミジに感動したのも。 あ・い・し・て・る。 と書いた熱い心をたぎらせた指文字も。 みんな、みんな翔だったのだ。 翔はあの日以来、翼の魂を受け入れてしまったのだった。 最初は意識していた。 でも死んだと言う意識さえ欠落していた翼は、翔の部屋にある姿見によって甦ったのだった。 翔の二重人格の部分を自分の物にして、完全に成り代わっていたのだった。 だから翔は気付かずに…… その大半を翼として生きてしまったのだった。 翼と翔は一心同体ではなく、二心同体だったのだ。  後頭部を強打した翼は、一旦は立ち上がったもののすぐに倒れた。 それを目撃した翔がすぐに駆けつけた。 でも…… 翔の腕の中で翼は気を失ってしまったのだった。 それを死んだと勘違いした翔。 傍にあった大きな米の袋を覆い被せて、翼を隠したのだった。 母を庇うためだった。 でも、その母は自分の罪に気付かなかったのだ。 翔はそれにを知らず、心を悩ませたのだった。  そして自分は翼を演じるために頭を自ら傷付けてから、勝に近付いて行ったのだった。 翼の頭にあった小さなハゲはこの時出来た物だったのだ。 でもそれは移動する。余りにも神経を磨り減らしているために、円形脱毛症になったのだ。 『あの後、初めてお祖父ちゃんが言ってくれたんだ。辛かったら何時でも遊びに来いって』 翼が涙混じりで言う。 翼は気が付いた。 勝はその時翼の傷みを感じたのだと。 いくら気遣ったつもりでいても、勝にはお見通しだったのだと言うことを。 それは陽子との会話。 翔は翼になりすましていたから、そのことを忘れていたのだった。 だから翼は、薫に愛されていない事実をひた隠しにしていたのだった。 翔が翼になりすましているなんて薫は知らずに帰ろうと我が子を探した。 でもその時、翼の役をして勝と話している翔に気付いたのだ。 そう…… 薫にはどんなに瓜二つでも翔が解るのだ。 それほど薫は翔を溺愛していたのだった。 何かがあったと薫は気付いて、周りを見回した。 その時…… 大きな袋が目に入った。 そっとよけてみると、身動きしない翼が…… 薫は、翔が翼を殺してしまった思ったのだった。 だから罪を隠すために…… 翔に殺人者のレッテルを貼らなくするために、翼の遺体を始末しなくてはいけないと判断したのだった。 翼の振りをしている翔。 薫は泣きながら、遺体を隠すことを決めたのだった。 だから、まだ生きている翼を死んだと思い込んで袋に入れて隠して車に乗せたのだった。 家に戻った薫は、翼の体を袋に入れ臭いの漏れないようにある工夫した。 その後で…… カフェの奥にある業務用冷凍庫の中に翼を入れてしまったのだった。 そのために…… その行為によってで翼が亡くなったことを知らないで。 翔が見つけた翼の冷凍遺体。 誰が其処へ入れたのか察した時、翔はより深く母を愛したのだった。 だから、翼を犯人に仕立てあげようと思ったのだ。 翼が子供の時死んでいたのなら、両親を殺害したのは自分だと気付いたからだった。  翔は愛する母を守るために、翼を生み出し自ら翼になった。 でもその事実を、翔自体忘れていたのだった。  翔は翼が生きていると思い込んでいた。 いや、思い込ませていたのだった。 そうすることで楽に生きられたのだった。 殺人者の子供。 その事実を封印するために。 いや、死んだこと自体を忘れていたのだ。 だから常に思い描いた。 だから妬ましくてならなかったのだ。 勉強をしなくても出来る翼が…… あの…… 勝が仕掛けたクリスマスイブのサプライズがきっかけだった。 目を覚ました時、翔は思わず言った。 『じっちゃん』 と――。 あの朝、隣で眠っていた陽子に驚いた。 翔にとって陽子は、見ず知らずの女性だったのだ。 それが、翼として生きてきた自覚に繋がったのだった。  翼と翔の会話。 それは、翔の妄想と幻覚だった。 翔の部屋の姿見と、堀内家のガラス戸に映し出された幻影をそれぞれだと思い込んでいたから成立したのだ。 だから陽子には、見えなかったのだ。 翼はコーヒー嫌いだった。 それは翔が思い込ませていたのだ。 確かに翼は父親である孝の入れたコーヒーが飲めなかった。 それはブラックだったからだ。 コーヒー界の頂点に位置するブルーマウンテンでさえも、翼にはただの苦い飲み物だったのだ。 孝の教えを翼に説いた翔。 それは、自分と翼は違うのだと意識した結果だった。 自分は飲めるようになったコーヒー。 それで、二人の差別化を図ったのだった。  薫が、翼が生きているように見せるために用意した二つの自転車。 シルバーは翔のだった。 カモフラージュと知っていながら、その事実さえも封印した…… だからそれと同じ色の自転車を見ると、翼は幻覚を見てしまうのだった。  薫は嘆いていた。 愛する翔が翼の精神を受け入れてしまったことを。 仕方なく、二人が居る振りをする。 大晦日の会話も、本当は咄嗟に出た言葉だったのだ。 『翔は?』 と翔は翼になって聞く。 『寒いのは苦手だって』 そう言ってごまかした。 苦しい言い訳を……  父親の孝は、そんなのはどうでも良かった。 だから翔が翼を演じていても気が付かなかったのだ。 まして、香が翼を殺してしまったことなど気付くはずもなかったのだ。 孝はずっと以前から、香を疎ましく思っていた。 香の子供の翔も、薫の子供の翼も眼中にはなかった。 あるのは、目の前にいた陽子だけだった。  だからあれこれと画策したのだった。 何とかして、陽子を手に入れたくて。  でも薫は気付いていなかった。 あの、翔の部屋に置いてあった姿見が全ての始まりだったことを。 翔は翼を演じていた。 それが母を救う手だとただひたすら信じて。 でも翼の精神は翔の体の中で生きていた。 翼は自分が死んだとは気付いていなかったのだ。 翔が姿見を見た時、翼は覚醒したのだった。 愛する人の傍に居たいがために…… 勝に甘えたかった…… そう、初めは自分の唯一の理解者、祖父への愛だったのだ。 翔はその大半を翼として生きてきた。 翼は一つしかない肉体の主人核を翔から奪い、自分の物としたのだった。 それは偏に薫に愛されたいと願った末にたどり着いた翼の切ない生き様だった。 翼は気付かずに…… ただひたすら愛を求めただけだったのだ。 だから翔は去年は東大に合格出来なかったのだ。 翔は翼として生きていたのだから、入試以前のセンター試験さえも受けることは出来なかったのだ。 ただ翼の記憶の中に、薫が積極的に東大受験をおし進めてきたことは認識していた。 だから、白いチューリップの咲く庭での会話が脳裏の中で成立したのだった。 あの花を薫が大好きだということを兄弟なら知っていて当然なのだから。  新婚旅行から帰って来た翔は決意した。 摩耶のために翼を抹殺しようと。 摩耶への愛の証のために…… それはやっと…… 翼の死と、自分への憑依を理解したから始まったことだった。  自分の体の中に居座り続ける翼を撲滅させようと翼の遺体を探し回った翔。 その時、心の奥で翼が震えているのを感じた。 怖くては震えているのか? それとも寒くて? そして、休業中のカフェの冷蔵庫に目が行った。 冷蔵庫の中には、ミルクなどでいっぱいだった。 そして、その奥の扉を開ける。 其処はサンプルとコーヒー豆をを保管するためのスペースだった。 万が一、食中毒でも起こった場合に保健所に提出するために冷凍保存しておくのだ。 それとコーヒー豆は、冷凍しておいた方が味の変化が少ないと聞いたためだった。 その奥の奥にひっそりと置かれていたダンボール。 それが翼の墓場だった。 翼はその中に押し込められていたのだった。  その頃節子は、三峰口駅に向かっていた。 トイレに置いてあったメモ帳を見たからだった。 《自分はもしかしたら殺されるかも知れない》 《きっと翼も何処かで殺されている》 《犯人は、さっきまで一緒にいた翔さん》 《何故なら、ご両親を殺したのは私と翼だから》  駅前で節子は、泣きながら三峰神社行きのバスを待っていた。 中川の駅員が、陽子が三峰行きの電車に乗ったと教えてくれたから、節子は二人を追いかけれたのだった。 大輪バス停で知人が乗り込んできて、節子を見つけ隣に座った。 「 神社まで? そう言えば陽子ちゃん、旦那さんと一緒にロープウェイ入口方面に向かって」 そこまで聞いて節子に立ち上がった。 「すいませーん! 降ろして下さい」 節子は大声で叫んだ。 三峰口駅出発の乗り合いバスは、全線何処でも止まってくれる。 秩父湖。 御嶽山。 温泉施設など、様々な観光に対処するためだ。 節子はそう思い込んでいた。 でも本当は、秩父湖の先からだったのだ。  それでもバスは停止してくれた。 「ありがとう!」 節子は知人にお礼を言いながら運転手の横にある料金箱に向かった。 「あっ、財布忘れた!」 何時もは入れてある財布が見当たらないのだ。 見兼ねた知人が千円渡してくれたので、両替機で小銭に崩して代金を入れて昇降口から慌てて飛び降りていた。 バスを降りると同時に出発する窓に向かって何度も頭を下げた。 「おかしいな。さっき電車に乗った時にはあったわよね?」 節子は首を傾げながら、廃止されたロープウェイ駅を目指すために大輪方面に向かって走り出した。  「お前が憎い! 翼を変えたお前が憎い! 努力もしないで出来る奴を焚きつけやがって!」 翔が喚いている。 翔は忘れていた。 自分が翼だったと言う真実を。 翔の心体は混濁していた。 自分が何者であるかも忘れて母を愛する、翔と言う人格になりきっていた。  「翼が何もしないで受かったと思っているの!?」 陽子の脳裏に狂ったように勉強する翼が浮かんだ。 「あなたのお母さんに母親を殺されて! お父さんに私がこんな目に遭わされて! 翼がどんなに苦しんだか! あなたに分かる!?」 陽子は泣きながら本当は優しい翔に問いかけた。 翔は一瞬怯んだ。 「お袋が翼のお袋を? 一体どういうことだ?」 「田中恵さんに聞いたの。薫さんとお義父さんは高校生の時から付き合っていたって」 「ほらやっぱり翼のお袋が浮気相手じゃないか!」 翔はいきり立った。  「違うのよ! 翼のお母さんが薫さんだったの。香さんも浮気相手じゃないわ。双子だと知らないお父さんが同時に二人を愛してしまったから悲劇が始まったの」 「例の睡眠薬強姦か?」 陽子はうなづいた。 「あなたのお母さんを睡眠薬で眠らせてレイプした。誰の仕業か判らないように工夫して」 陽子はため息を吐いた。 「翼が言ってた。私が眠らされていた時、お義母さんは『私の時にも同じことをしたのね』と言ったと」 翔は頷きながら聞いていた。 そのことは覚えていた。 確かにあの現場で…… 薫はそう言った。 翔は翼の意識の中では部屋にいるはずだった。 だから自分もあの時の話を覚えていたのだった。  「それが薫さんが香さんだという証拠よ。お祖父さんも、義母さんを香と呼んでいた」 翔はしばらくは、おとなしく聞いていた。 翔は本当に知らなかったのだ。 父親の浮気相手の子供。 それだけで翼を憎んだ。 それだけで充分憎む価値はあったのだ。  母に苦しみを与える翼。 自分の屈辱を味わせた翼。 何も勉強しなくても、翼は出来ると翔は信じていたのだった。 でもそれは自分の知識だった。 それすら知らず、翔は翼を憎んできたのだった。 全てを翼のせいにしたかった。 愛する母の叱咤激励。 激しい溺愛さえも。  「それでもやっぱりお前が憎い。お前が翼の前に現れなかったらお袋は苦しまなかった」 翔は再びサバイバルナイフを構えた。 「私のせいじゃない!」 陽子は涙を拭いもせず、翔を見つめ続けた。  「そうだいいこと教えてやる。翼を殺したのは俺だ。アイツはヒーヒー言いながら死んで行ったよ。嬉しいか! アイツと同じナイフで死ねるんだぜ」 その途端。 翔は思い出していた。 翼を刺したあの瞬間を。 遺体は無かった。 でも確かに刺した。 翔の手に…… 翔の心に…… あの瞬間が蘇っていた。  確かにこのナイフだった。 翔は今。 はっきりとした記憶の中で、翼を殺したことを確認していた。 でも…… 翼の遺体は其処には無かったのだ。 翔は妄想の中で翼を刺していただけだったのだ。  (コイツを殺せば、アイツはもう度と出て来ることはない) それでも翔はそう思う。 そして翔は再びそのナイフで翼を抹殺することを決めていた。 そう…… 陽子が死ねば、翼は魂のよりどころをなくすのだ。 (全ての諸悪は此処にいるコイツだ。そうだ、コイツさえ居なくなれば……) 翔が不気味な笑顔で迫って来る。 「狂ってる。翼助けて!」 陽子は思わず天を仰いだ。 青々とした木々の向こうに、真っ赤な太陽が輝いていた。  「ねえ翼! どうして私の名前が陽子なのか知ってる?」 「お前何言ってるんだ!?」 陽子の突拍子もない言葉で翔が動揺する。 「翼! あなたは私が太陽だと言ってくれた。でも違う。翼! あなたが私の太陽だったの!」 陽子は我が子を守るためにもう一度身構えた。
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