03 妥協点

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背筋にたらたらと汗を流す近野を前にして、高遠和泉は呆然として口元を歪ませた。「帰れ」と声に出される二秒前に、半ば押し入るかたちで室内に雪崩れ込む。扉を閉めて家政婦の視線から逃れ、ひとまず胸を撫で下ろす。 「おい、何なんだ。何でお前がここにいる」 無理もないが、部屋の主は目を白黒させている。近野もどう説明したらいいか迷った。 「雫さんから教えて貰って……って言うか凄い家だな、お前んち。廊下歩いてたらプールまで見えた」 取り敢えず言いたくて堪らない事を述べてみる。なんだこの家は、絵に描いたような豪邸じゃないかと、先ほどから頭を占めるのはその事ばかりだ。 庶民の純粋な驚きに、彼は呆れた眼差しを返してくる。 「何だよ、言っておくとプール付きの一軒家がありきたりだとか思い込んでたら大間違いだぞ。俺んちの団地なんて、この家の庭にぎりぎり収まりそうだ」 「あのな、そんな事より」 「そもそも家政婦さんに坊っちゃんなんて呼ばれてるのも、びっくりし過ぎて腰抜かすかと思ったわ。うちなんて姉ちゃんが俺の顔見るたびに『眼鏡』とか『ゴミカス』とか呼んでくるだけだし」 「眼鏡はともかくゴミカスって……身内に憎まれてるのか」 「いいや、姉っていうのは弟をどんな名称で呼んでも罪に問われない生き物だから、俺への愛ゆえに、親しみを込めて呼んでくるに違いないよ」 「……」 理解に苦しんでいるらしい高遠和泉の姿に、緊張と興奮が少しだけ和らいできた。 制服姿ではなくラフな私服──淡い色のデニムに白のカットソーを着た彼は、常日頃よりは、年相応の柔らかい印象を受ける。一時は体調不良で寝込んでいたらしいが、その顔にやつれた部分はない。相変わらず愛想笑い一つ浮かべはしないが、思ったより元気そうで、近野は密かにほっとした。 「やっぱり家が家だと、お前の部屋も広いよなぁ」 モデルルームのような洒落た内装の部屋には、ベッドにクローゼット、勉強机の他に、椅子とテーブル、ソファとサイドテーブルが揃っている。こんなに何組もの椅子とテーブルが配置されても、まったく手狭でないから驚きだ。 近野は自分の家の居間に鎮座した古いこたつを思う。あのこたつが我が家のダイニングテーブルから母親のアイロン台、姉と自分の勉強机を兼ねているのだから、高遠家とは雲泥の差である。 物珍しいせいできょろきょろと見回していれば、高遠和泉はベッドに腰を下ろした。諦めたような顔を見るに、どうやら追い出されずには済みそうだ。 「まさか、お前が来るなんて思ってなかった」 彼が呟く。 垂れた前髪の奥の、ぼんやりとした瞳は切なげで、数日前のあの日のやり取りを、鮮明に思い出させる。あの日に捕らわれていたのは、どうやら自分だけではないらしい。 ──謝るなら、今しかない。 近野は息を整えてから、彼に向かって深く頭を下げた。 「高遠、謝らせて欲しい」
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