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──やっぱり決裂かな。
震えるような不安がじわじわと這い登って心臓に達する直前に、彼はそっと手を握り返してきた。滑らかで大きな、温かい手だった。
「謝ったと思ったら、次には自分は悪くないって、とんでもない言い分だな。摘まみ出したくなるよ」
溜め息は吐いても、手は離されない。
その事実に、胸がほんのりと満たされるような感覚がして、思わず笑っていた。
「……何で笑ってるんだ」
「いやぁ、ほっとして。怒られて絶交されるかもって思ってたから」
「別にお前にとっては、俺に絶交されようが支障はないだろ。ああ……まさか、雫と上手くいった場合でも考えて」
「それは無い。雫さんは嵐山先輩一筋だし、彼女の気持ちはなるべく応援するつもりだ。第一、俺と雫さんが上手くいくかもなんて大それた考え自体持ってないよ」
「でも、雫が好きなんだろ?」
正面切ってそんな風に尋ねられて、言い淀んでしまうこちらを見て、高遠和泉は確信したらしい。今までのように彼を傷つける言動は、軽率にはとらないと決めたこちらの意思を。
「……ますます分からないな。何で俺をそんなに気づかう?」
答えに窮する。
何故ってそれは。
「せ、責任があるから」
「責任?」
「そうだよ。高遠に訳のわからない薬を飲ませた責任があるんだ」
「あの時に俺が薬を飲んだのは、俺の責任と、口車に乗せた雫の責任くらいしかないと思うが」
「いいや、ある。俺だって化学同好会の端くれだし、うちの同好会の作ったもので大変な目に遭ってる奴がいたら、それは俺にも償う責任がある」
むきになって責任を負うと言い張っていると、本当にそんな気がしてきて、ますます泥沼にはまっていくようだ。しかし何故これほど高遠和泉を放っておけないのか、その理由を深く探られるのは、まずい気もしたのだ。
折しも都合よく、ノックの音と共に、先ほどの家政婦の声が聞こえてきた。
「坊っちゃん、お友達と召し上がる飲み物をお持ちしましたよ」
高遠和泉は返事と共に扉に近寄り、家政婦が運んできてくれた盆を受け取った。盆にはジュースを注いだグラスと、菓子を乗せた小鉢が乗っている。
「白石、これはもういらない。こいつはすぐに叩き出すから」とは、彼は言わなかった。受け取ったそれらをソファのサイドテーブルに置き、言葉少なくも勧めてくる。やっぱり思ったより、彼は冷徹な人間ではないらしい。
ご丁寧にストローの刺さった背の高いグラスを受け取って、近野は存分に喉を潤した。緊張で喉がからからだったのだ。
フルーツの果肉たっぷりのジュースをありがたく頂き、生き返る心地を味わっていると、すぐ近くからじっと見詰めてくる視線に気づいた。途端に、身の置き所に困る事になった。
「あー……なあ、高遠。前から思ってたんだけど、仮にも『惚れてる』人間にさ、そんなふうに、動物を見るような目を向けるのはどうなんだよ?」
堪らず苦言を呈すると、彼は少し驚いたように片眉を上げた。
「そんな目で見ているつもりはなかった。ただ」
「ただ?」
「単純に、お前が好きだなって、そう思った」
ジュースを吹き出すところだった。慌てて飲み込んだせいで噎せ返る。今のはいったい……聞き間違い?
当の本人は平然としているから、余計に混乱させられる。彼は頬を赤らめてもいない。代わりに近野の顔が赤らんだ。
「何を驚いてる。お前が言ったんだろ。全部惚れ薬のせいなんだから、素直になれって」
言っただろうか。言ったのかもしれない。だけどこれはあまりにも……心臓に悪すぎやしないか。
「げほっ……お前なぁ」
「全部惚れ薬のせい、か。ああ確かに、お前の言う通り、そう思うと少し開き直れるな。これはいい事を教わったかもしれない」
いい事を教わったと、その辺りで彼が声を潜めたので、近野は呻いた。何故か彼の台詞が、酷く蠱惑的に響いた気がした。
「……惚れ薬って、まじで恐ろしい薬だな」
「ああ、そうみたいだ」
淡々と、今までと同じ憎まれ口ばかり叩くのに、どうしても甘く聞こえてしまう。耳が可笑しくなったのか。それとも彼が可笑しいのか。
──これはぜんぶ、惚れ薬のせい。
いつの間にか、自分に対してそれを言い聞かせ始めている事を、この時の近野はまだ自覚していなかった。
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