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一時間くらい経過した頃か、ノックの音と共に扉が開いて、高遠がやってきた。
物音に弾かれるようにしてノートから顔を上げた近野は、入室してきた高遠と真っ直ぐ目が合って、瞬間的にぎゅっと心臓が縮むのを感じた。
何故かいきなり動悸が激しくなってきて、ついでに喉が乾く。咄嗟に茶でも飲もうと湯飲みを傾けたが殆ど空っぽで、苦い茶渋の塊が流れ込んできただけだった。
「おお、和泉君。やっと来たか」
貴重な被験者の来訪に、嵐山は目を輝かせる。雫も嬉しそうに歓迎した。
「じゃあいつものチェックからやってくれたまえ」
嵐山はいそいそとマークシートを取り出す。お決まりの、例の、恋愛脳を拗らせたような質問が並ぶアンケートだ。
近野は自分の湯飲みに茶を継ぎ足すつもりで立ち上がる。ついでに高遠の分の湯飲みも用意した。甲斐甲斐しくお茶汲みをしてやる訳ではなくて、あくまでついでに、と心の中で弁明した。
お茶を持って高遠のところに行けば、高遠は顔をこちらに向けてきて、「ありがとう」と小さく礼を口にした。それは小さな変化だが、近野にとっては大きな驚きをもたらした。
冷たいばかりだった表情は、笑顔こそ無いものの、常より柔和な印象を受ける。
「……あの、これは快気祝い」
逆に近野の方がぶっきらぼうな口調になってしまった。お茶の隣に置いたチョコレートの包みを見て、高遠は意外そうにした。
チョコレートは昨日、雫から教えられた銘柄だった。ただし雫が用意したものではなく、これは近野が新たに買い足したものだ。
昨日食べた時に美味しかったから、せっかくなら別のフレーバーも試してみたかったし、それが高遠の好物でもあるならなお良いと思えたから、コンビニで見かけて購入した……さっきから誰に対して弁明しているのか。
雫は目敏く指摘してくる。
「あ、そのチョコ!和泉の好物だって、覚えていてくれたんですね」
「あはは……えーと」
「しかも一番カカオが控えめなタイプ。甘党の和泉の事を、近野さんはとても気づかって下さったんですね」
どこか熱を込めて感謝され、居心地が悪くなる。無言で聞いている高遠も高遠だ。「急にご機嫌とりしてきて何なんだ」くらいは言ってきてもいいのに、綺麗な顔をぴくりともせずに押し黙っている。
いっそ憎まれ口を叩いて貰えないだろうか、などとマゾヒストのような願望が口をついて出そうになったところで、彼は唐突にこちらの手首を掴んできた。
「え、なに」
驚きで身を竦ませたこちらに、じっと見上げてくる高遠の視線が絡む。
「いいからここに」と、彼の隣の椅子に腰掛けるよう促される。口調に威圧的な響きはなくて、むしろ切々とした願いが込もっているように聞こえて、気づけば大人しく従っていた。
手首を掴むのとは逆の手で、高遠は再びマークシートに記入していく。位置と体勢が悪くて、回答が丸見えだ。以前、たまたま覗き込む形になった時に睨まれたのを思い出す。ならば見てはいけないのだろうと目を背けたが、この時の高遠は違った。
「思い直した。お前にも見せた方がいいかもしれない」
手首を掴んだ手が、ゆるい力で引き寄せてくる。高遠に身を寄せる事になって、彼の身に纏う清潔な香りを間近に感じ、異様な緊張感に苛まれた。
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