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可及的速やかに、とは言ったものの、その日に試された中和剤は結局失敗だった。試作品の中和剤を口に含んだ瞬間に青ざめた高遠と、その後に起きた一悶着に巻き込まれた近野が疲弊している内に、下校時刻になった。
「近野さんも、途中までご一緒しましょう」
雫の申し出を断れる筈もなく、高遠兄妹とこうして肩を並べて帰路についている。少し前までは考えられなかった事態である。
帰り道がまったく逆の嵐山とは早々に別れ、二人に挟まれる形で歩いていると、通行人の視線がきっちり左右に二分されていくのをまざまざと感じた。
雫を一瞥して鼻の下を伸ばす中年親父には、彼女の後ろに立って睨みをきかせてやった。
一方で高遠に秋波を送る女子グループに対しては……恐ろしいのでなるべく気配を消しておく。彼女らからすれば近野など、『王子様の横に控える荷物持ちの一人』くらいにしか見えないだろうが。
ふいに、雫が書店の前で立ち止まった。
「欲しい本があるんです。少し立ち寄ってもいいですか?」
特に急いでいる訳ではないので頷く。高遠も、妹を置いてまでさっさと帰ろうという気はないらしい。
店内に入り、雫の買い物が終わるまでの暇潰しに、商品棚を流し見てみた。
隣にいた高遠が陳列された一冊に手を伸ばす。横目で見てみるとビジネスマン向けの経済書だった。英字の原題が大きく載っていて、それに注釈を入れるような日本語訳が添えられている。
「高遠らしいって言えば、らしいかもだけど」
独立起業を考えているサラリーマンか、意識の高い大学生しか興味を抱かなそうな分厚い本に、苦笑いが浮かぶ。少なくとも、高校一年生がいの一番に手に取るものではない気がした。
近野の反応に何かを感じたのか、高遠は心外だと言うように肩を竦めた。
「この教授の書き口は斬新で面白いんだ。文章が軽くて読みやすい」
「俺にしてみたらハードカバーってだけで、胃もたれするくらい重そうに見えるんだけど」
「そもそもお前、普段は本を読むのか?」
「いいや全然。俺は漫画専門。眼鏡かけてる奴が全員本好きのインテリだと思うなよ」
「インテリかどうかとお前の眼鏡に、何の関係があるんだ」
高遠は本気で首を傾げている。眼鏡キャラに纏わるお約束など、高遠の文化圏には存在しないらしい。
「高遠も漫画を読めば分かるよ」
「そうか、お前の好きな漫画はどれなんだ」
「俺の好きなやつって……えーと、最近だと」見渡してみても、漫画のコーナーはここから少し遠い。代わりに、近くにあった雑誌置き場に目が留まった。映画雑誌の表紙を飾ってるのは、アニメーションのイラストだ。
「これの原作漫画かな。アニメも演出が派手で面白かったけど、カットされてる部分もあるし、やっぱり漫画の方が深く味わえて、俺はそっちのファン」
厚み三センチ以上ある経済書を軽く読む人間に、漫画の面白さを語るのはそこそこ引け目もある。しかし高遠は何か興味を引かれたのか、その雑誌を手にしてパラパラと捲り始めた。
中程のページまで来たところで、近野は「あ」と声を上げる。高遠はページを送る手を止めた。
見開きで載っているのは、近野がずっと追いかけているアメリカンヒーロー映画の最新作だった。
「これ、いよいよ日本で公開かぁ」
思わず前のめりでページに目を通し、劇場公開予定日をチェックする。
「このシリーズが好きなのか」
「ああ、いつも公開初日に映画館行って観るくらいには」
高遠は少しばかり難しい顔で考え込むようにした。いったいどうしたのかと見ていれば、彼は俳優のひとりを指差した。
見慣れない若い俳優は、次作の初登場キャラに抜擢された新人らしい。役名の下に俳優名──アレクシス・モーガンと記載されている。口元に白い歯を覗かせて、茶目っ気混じりに笑うハンサムな顔立ちは、何となく、身近な誰かに似ている気がした。
「従兄弟だ」
「は?」
想像してみて欲しい。メディアの中にしか存在しないハリウッド俳優を指差して、従兄弟だと紹介される気持ちを。
目が点になる近野を置き去りにして、高遠が何か言っている。
「母がたの伯母がアメリカ人と結婚してて、その息子が俳優を目指してるとは聞いてたんだ。しばらく会ってないけど、そういえば一昨年くらいに大きな役に抜擢されたって言ってた気はする。この映画の事だったんだな」
「……」
「親戚のよしみで、多分、頼めば試写会のチケットくらいなら手に入るけど、いるか?」
反応が鈍ったこちらをどう思ったのか、高遠は気まずそうに明後日の方向を向く。
「そこまで好きな映画ならと思ったんだが、余計な世話か」
「親戚がハリウッド映画に……」
そんな事、あり得るんだろうか。だが高遠がこの手の冗談を言う人間には見えない。そうこうしている内に、買い物袋を持った雫がこちらにやってきた。彼女はいまだ開かれたままの映画雑誌のページを見て瞳を輝かせた。
「アルの出る映画ね。しばらく会ってないけど、元気そうでなによりだわ」
親しげに『従兄弟』の活躍を喜ぶ同級生達に、気が遠退きかける。
彼らは文化圏が違うどころではない。生きてる星が違う、くらいの衝撃に、近野の頭は暫くショートした。
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