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今は亡き母の足跡につき
今よりも約四十年前のこと。
教会で一人の男児が生まれた。
中々お互いに多忙で、子供に恵まれなかった両親は、男児の懐妊を心から喜んでいたそうだ。
両親はもちろん、街の人々からも精霊からも、女神からも生誕を祝福された男児の名はシモン。
後の大司教シモンであった。
彼の父は美神教の教祖。
母はそこに入信したシスターであった。
神への信仰心もさることながら、誰にでも優しく、差別をせずに手を差し伸べるそんな父の姿に、心から尊敬の念を母は抱いていた。
父もまたいつ如何なる時でも父の側を離れず、自身が一番の理解者であろうと努力し、献身的に尽くす母の姿に心から信頼を抱いていた。
互いに互いを認め合う心はやがて、色を帯び、愛情へと変化するまでそう時間はかからなかった。
その愛し合う二人の間に生まれた子だ。
無論、二人からの愛情もそれはそれは深いものであった。
二人に見守られ、すくすくと真っ直ぐに成長するシモン。
しかし、ある時、そんな関係に陰りを落とす出来事が起きた。
シモンの背中に、痣らしきものが浮かび上がったのだ。
その痣は魔障紋と呼ばれ、魔力が高い者が稀に発症するという病であった。
身体の中の魔力〈オド〉が大きすぎるために、取り入れる外界の魔力〈イド〉を必要以上に引き入れてしまい、身体のバランスが崩れることで風邪にも似た症状を発症する。
長くこの状態が続けば、慢性的な体調不良に苦しめられやがて心身共に衰弱し、遂には死ぬこともあるといわれる病だった。
この病の治療のためには、過度な魔力生成を抑えるための薬草などを煎じて飲むのが一番の治療法とされていたが、そのための薬草は大戦の折に回復薬の材料として乱獲されておりその数を激減させていた。
手に入れるにも、その薬草がない状態であった。
方々に手を尽くし、やっと手に入れた薬草も二束ほど。
すぐに使い切ってしまうだろうと、両親は頭を抱えていた。
そんな折、ある行商から地方の林の奥に、薬草が咲いているのを見かけたという話を聞いた。
父は藁にもすがる思いで遣いの使者を送り現場を確認させたが、返ってきたのは使者の死亡の報告だけであった。
なんでも、その辺の林は中型モンスターの住処らしく、人が簡単に出入りできない地域のようだった。
諦めるしかない・・・。
そう頭で分かっていても、両親は息子が熱に苦しむ姿を目にするたびにいても立っても居られない気持ちになっていた。
段々と血の気を無くしていく息子の顔。
細くなり始めた腕。
苦しさを表すような荒々しい息づかい。
熱で緩んだ涙腺から溢れ出る涙。
ポタリと息子の涙がシーツを濡らした音を聞いた時、母の中で何かがプツリと音を立てて切れた。
その日、母は教会を飛び出した。
夫の静止を振り切り、シスターやブラザーを押し退けて、薬草を求めて教会を飛び出したのだ。
教会を飛び出した母は、一心不乱に行商人の居場所へと駆け込み、縋り付くように薬草の目撃場所を問いただした。
単身で魔物のいる林へ向かおうとするシスターの安全を考えて、行商人は情報を出し渋っていたが、その鬼気迫る様子に遂に折れて情報を手放してしまう。
情報を得た母は、行商人にお礼もそこそこに王都を飛び出して行った。
途中、何度もモンスターに襲われた。
王都近くの平原で。山越えの途中で。小さな村の近くで。渡ろうとした川で。迷い込んだ草むらで。
何度も何度も襲われ、その都度、怪我を負いながらも一心不乱に手にした自決用のナイフで交戦して駆け抜けた。
ディケーナの近くまでやってきた時には、満身創痍だった・・・。
倒れた・・・。
力なく・・・前のめりに・・・。
乾いた喉を抜ける枯れた息遣い・・・
空腹で鳴り響く腹・・・。
ギシギシと軋む肉と骨の音・・・。
バクン・・・バクン・・・と強くも弱くも不揃いに響く心音・・・。
身体全てが、限界を訴えかけていた。
それでも、母は立ち上がり、後のディケーナの始まりである村で休むこともせず、横目に見ながら通り過ぎる。
歩く・・・歩く・・・。棒になっても酷使された足は、靴がすれ血が滲みていた・・・。
歩く・・・歩く・・・。激しい交戦で使ったことも無いナイフを振り回した腕は鬱血し、手にできた血豆は破れ、血が滴っていた・・・。
歩く・・・歩く・・・。美しかった顔は何度も転んだせいで傷ができて、痣もあり口端は切れて血が滲む・・・。
歩く・・・歩く・・・。全身の悲鳴・・・生命維持からの警鐘・・・。全てを無視して、母は歩く・・・歩く・・・。
全ては・・・愛する人との間に生まれた、愛する我が子のために・・・。
歩く・・・歩く・・・ただ、ひたすらに・・・。
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