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三歳の時、「三年保育の幼稚園」に通い始めた。スクールバスで通っていたが、憶えているのは帰り道だけ。帰りのバスでは一人一粒「肝油」が配られる。まずくて食べたくなくて、よく備え付けの灰皿に押し込んで隠した。
雨の日、バスは違うルートを通って帰る。流れの激しい泥色の川の上の小さな橋を渡る。バスが落ちないかと心配でたまらなかったから、雨の日は大嫌いだった。何故雨の日は通る道が違うのか、としつこく親に聞いたのに、いつまでもはっきりした返事はなかった。晴れの日と同じ道だったんだろうな。
栗拾いや室内遊びを憶えているが、あまり楽しくなかった。幼稚園に行くと、自分が小さく感じられた。出来ないことが多かったのだと思う。そのうちの一つがはさみを使うことだった。
ある時、私が工作の時間にはさみを手にして困っていると、隣の席の男の子が声をかけてきて、私の分の色紙まで切ってくれた。私は、助けてもらったことよりも、彼の気持ちが嬉しかった。胸がいっぱいになる、という感じだった。
先生が来て、自分の色紙は自分で切らないと練習にならない、下手でもいいんだから自分で切ろうね、と私と男の子に注意をした。私は男の子に悪いと思い、自分を恥ずかしく思い、先生に腹を立てた。男の子は全く気にしていないようだったし、私に対しても、あんまり気にするな、という態度だった。
それからどれくらい後か、ある朝幼稚園の教室に入ると、その男の子の机の上に花を生けた花瓶が置いてあった。ませていた私は、「ここにあったら邪魔だから」と言い張って、動かしてはいけないと主張する他の子達を説き伏せ、花瓶を先生の机の上に持っていった。先生が教室に入ってきて、とても静かな声で、
「花瓶は動かしてはいけない、その机の上に置いておくのだ」
という意味のことを言った。言葉の詳細は忘れたけれど、その時の先生の声の調子は、今もはっきり思い出せる。私は、その声に打たれて、その場にぼーっと立ちつくした。
それから先生は、その席に座っていた男の子が昨日、幼稚園から帰った後で家の近くの踏み切りで遊んでいたこと、踏み切りには遮断機がなかったこと、電車が来てはねられたこと、彼は亡くなってもう幼稚園に来られないことを淡々と話し、皆さんは決して踏み切りに入って遊んではいけない、と厳しい口調で付け加えた。私たち子供は静まり返って聞いていたように憶えている。
私は先生の話を理解した。世界の全ての動きがゆっくりになったような感じだった。あのはさみの子、やさしい子ともう二度と会えないことは、間違っているように感じた。理不尽という言葉を知っていたらそういうことだったのかもしれない。
家に帰ってから、お気に入りの窓の桟に積み木をたくさん並べた。お気に入りの窓は、行きたいのになかなか連れていってもらえない「遠い公園」の方向に面していて、よく虹が見えた。私は虹が出る度に、虹の橋のたもとを近くで見たい、あそこまで歩いていきたい、と粘り強く母親に頼んだ。
その窓の桟に色とりどりの積み木を並べておいて、私ははさみの子に心で呼びかけた。積み木を全部あげるつもりだった。
私は長い時間、積み木を前に窓の外に向けて祈り続けた。しかし、胸のあたりに風が吹くように、物足りず、納得がいかなかった。積み木をあげると言っているのに、目の前からずっと消えないし、自分がやっていることは結局自己満足じゃないか、あの子を助けることにならないじゃないか、という批判的な気分もあった。
その後、多分すぐに私は引っ越して、幼稚園をやめてしまった。母親が生きている間に聞かなかったので、あのはさみの子の名前も、事故の詳細もわからない。
ぶっきらぼうに何か言葉をかけてから、色紙を取り上げて切ってくれたはさみの子を、私はたびたび思い出す。
言葉を今ほど上手に操れなかったあの頃、はさみを巡る彼とのコミュニケーションが実に完璧だったことに、目をひらかれる思いがする。
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