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帰ってきた姫子ちゃんは、確かにお饅頭を持っていた。ちょっとはしゃぎ気味で彼女がダイニングテーブルに饅頭を並べる。透明パックに三つ並んだお饅頭は、それぞれ種類が違うらしい。
「駅前に不定期で来る和菓子屋さんあるじゃない? 今日来てるの見つけて、買ってきちゃった。マーリンは粒あんでしょ、私はよもぎで、譲さんはわからなかったから、とりあえずこし餡買ってきました。粒あんが良かったらマーリンのと交換してください」
「粒もこしも大歓迎だから大丈夫。ありがとう、姫子ちゃん」
「いえいえ。この和菓子屋さんすごくおいしいので、ぜひ食べてみてください。あ、お茶淹れますね。緑茶でいいですか?」
「お饅頭代のかわりに、僕が淹れてあげるよ。姫子ちゃんは着替えておいで」
「だめ。マーリンはお茶淹れ禁止って何回も言ってるでしょ。私が淹れるから待ってて。着替えるのなんてあとでいいんだから。あ、譲さんも座っててくださいね」
お饅頭ごと元気よく台所へ向かう姫子ちゃん。マーリンの言っていたとおり、ご機嫌のようだ。よほど美味しいお饅頭らしい。となるとお茶も美味しいものがいい。魔法使いの方を向くと、彼の唯一見える口元が笑っていた。
「姫子ちゃんは今日も元気がいいなぁ」
「お茶淹れ禁止なんですか」
「うん、実は下手でね」
「禁止されるほど?」
「二度とお茶淹れるなって二十回くらい言われる程度」
それはさすがに呆れる。どんだけ下手なんだ。そしてどんだけ懲りなかったんだ。とはいえ、俺もなんとなくこの家主のことはわかってきてるつもりだ。きっと、さっきみたいに姫子ちゃんのためだったんだろう。それを下手と断言されるのは悲しいけど、変に誤魔化したりしないのは彼女らしい。彼女があんまり器用は性格をしてないことも、わかってきてる。
まあ、そんな姫子ちゃんなのだ。年上として甘えすぎはどうかと思いはするけど、素直に言うことを聞いたほうがいいに決まってる。後片付けはきちんと手伝うことにしよう。
一人で納得し、そろそろ定位置になりつつある席に着く。姫子ちゃんはすぐに戻ってきた。大きなお盆に、三人分の湯飲みとお皿に乗せなおしたお饅頭。いただきますと手を合わせると、意図せず声も重なった。
「ふふ、譲くんもこの家になじんできたね」
「そうみたいですね」
ちょっと照れくさいけど、悪い気分はしない。お茶と糖分が重労働後の体に染み渡る。なめらかなこし餡がすごくおいしい。やわらかい川も口に貼りつかなくて、食べやすい。姫子ちゃんも満足そうだ。そして、口元しかわからないマーリンに視線を移して、ふと気になった。
「そういえば、粒あんが好きなんですか?」
「んー? いや、あんまり食べ物にこだわりはないよ。だからまあ、選ぶなら定番が多いかな」
「なるほど、それで粒あんをリクエストしたんですね」
言って、自分で首をかしげる。なにかおかしい。見ると、姫子ちゃんも同じように首をかしげていた。
「お饅頭の種類、マーリンにリクエスト聞いたわけじゃないです、よ? 店が来てるの見つけて、つい買ってきちゃっただけで」
そう、それだ。買ってきちゃったとは、衝動買いに使う言葉だ。リクエストを聞く買い物じゃない。
「でもマーリンが、お饅頭買ってきてくれるって言ってたけど……」
「そうなんですか? マーリン、お饅頭屋さんが来てるって知ってたの?」
「いや、姫子ちゃんがお饅頭を買ってくるってのがわかっただけ」
わかった、とはどういうことだろうか。俺と姫子ちゃんはそろって首をかしげる。そしてそれはいつだったんだろうか。
お饅頭を食べる手が止まる。俺達の頭に疑問が渦巻いているのを感じたのか、マーリンは順序だてて説明してくれた。いわく、本棚が倒れた時に、姫子ちゃんがお饅頭を買ってくる未来が見えたらしい。片づけが長引くとお饅頭にありつくのが遅くなると思って少し前の俺に電話をかけたけど、本棚倒壊の阻止はできなかったのが、現在だとか。
「なんか、すみません」
「あはは、いいよ。もうちょっと前の時間に電話かけなかった僕のミスだから」
「ていうかマーリン、本棚倒したの? 怪我は? 変なとこぶつけたりしてない?」
ばっと立ち上がって、マーリンのそばに回り込む姫子ちゃん。普段は魔法とか予知とか変なこと言うなと怒っていることが多いのに、今回は不問らしい。触ると痛むと思っているのか、こわごわと髪を撫でるような、服をつまむような、そんな仕草でおろおろしている。そんな、彼女の初めて見る様子に、俺は少し驚いた。
「あ。しまった、言っちゃった。やっぱり無駄な抵抗だったか」
「無駄ってなに。ねえ、怪我してないの? 大丈夫?」
「平気平気。ちょっと足挟んだけど、歩いても痛くないよ。ほら、席に戻って」
つかまれた肩をくるりと回され、彼女はしぶしぶ席に戻った。無駄な抵抗と言う言葉を、俺は少し前にも聞いている。あれは本を片付ける直前。姫子ちゃんに心配をかけないためと彼は本を手に取った。
なるほど、お饅頭のためは嘘か。この魔法使いは、俺に電話をかけた時からついさっき口を滑らせるまで、姫子ちゃんに心配をかけないためだけに行動していたのだ。
「なんというか、そういうことはちゃんと説明しておいてくださいよ」
「そこはほら、一つ屋根の下のよしみで。時間もなかったしね」
にやりと、彼は再び口元だけで笑う。家主さんの方針なら仕方ない。
「片付け手伝ってくれてありがとね、譲くん。姫子ちゃんも心配してくれてありがとう。でも済んだことだからこの話はおしまいにして、お饅頭食べようよ」
「おいしいお茶が冷める前に、ですね」
俺がマーリンの肩を持つと、姫子ちゃんはため息をついた。どうやら彼女も納得してくれたらしい。
「これ食べ終わったら本棚全部点検しないと。譲さん、手伝ってもらっていいですか」
「もちろん」
「あれ、僕は?」
「マーリンは食器片づけ!」
歩き回る点検はさせない姫子ちゃんに、うっかり笑ってしまう。彼女は照れ隠しにも怒るのか。なるほど、いつも元気のいいことだ。当然、なに笑ってるんですかと睨まれるが、その視線はちっとも怖くなかった。
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