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早くお饅頭が食べたい
隣の部屋から聞こえたやたらとでかい物音とスマホのアラーム、そして悲鳴の三重奏という、ミッション失敗通知が響き渡る。俺は間に合わなかったらしい。
のんびりと部屋を出て物音がした扉の前で少し待つ。まったく、五分後に本棚が倒れるなんて電話する余裕があるなら、さっさと部屋を出ればよかったのに。
「マーリン、無事ー?」
「あ、譲くん。ナイスタイミング―。五分じゃ間に合わなかったか」
「はは、そうだね」
扉を開けると、まず本棚。それに押しつぶされた本の群れ。その中からくぐもった声。この部屋は日当たりがいいので、それが全部逆光で見えた。ちょっと怖い。あ、本のページ折れてる。
声を頼りに本を取り除くことで出現した黒い塊に、とりあえず声をかける。
「一人で出られそう?」
「んー、無理かなぁ。足が抜けないんだ」
「でもこれ、俺じゃ持ち上げられないと思うんだけど」
この家の調度品は、だいたいが古くて上等だ。つまり、重量がある。壁に打ち付けてあったはずだけど、古さの分、留め具が劣化してたんだろう。ちょっと持ち上げる振りくらいならできるかもしれないが、マーリンが這い出して来るまで持ち上げ続けるのはたぶん無理だ。
「努力と根性でなんとかならないかな」
「本気で言ってる?」
「じゃあ知恵で」
助けてもらう分際で頭を使えと来たか。しかし、彼は家主さんなので仕方がない。パッと思いつくのは梃子の原理だ。物干し竿や箒は折れそうなので、掃除機を持ってこよう。
ちょっと待っててと部屋を出る。ポケットに入れっぱなしだったスマホがまた震えて、アラームを切り忘れたかなと取り出した。見れば姫子ちゃんからの帰宅時間連絡で、あと三十分ちょっとだという。急いで片付けないと怒られそうだ。
掃除道具置き場へ向かう足を速める。一階の左翼階段下の収納にまとめてあったはず。目当ては姫子ちゃんお気に入りの細いコードレス掃除機。スタンドから引っこ抜いて、来た道を戻る。かなり軽いけど、これを持って階段を駆け上がれ運動能力はあいにくと持ち合わせていない。そもそもこの家の階段は不規則に本が積まれているので、駆け登ると危ない。
俺が元の部屋に戻っても、マーリンは抜け出せていなかった。待ってたよー、とのんびりした声。一人で頑張る気はないらしい。窓側出足が挟まっていると言うので、倒れた本棚を迂回して部屋の奥に進む。散らばった本を脇にどけて、掃除機のノズルを本棚の下に差し込んで、せーのの掛け声で少し持ち上げた。かなり力を入れないと、ローラーが滑って怖い。
もういいよと聞こえて、ゆっくり力を抜いていく。少しすると、ごそごそと音を立てながらマーリンが脱出に成功した。ほうほうの体で這い出すを体現する姿だ。
「あー、痛かった。ありがとう」
「いえ。怪我はないですか」
「うん、大丈夫」
真っ黒の服を着てるはずなのにちょっと白っぽいマーリンがバタバタと全身をはたく。埃が立つからやめてほしいけど、彼は気にならないのか肩を回したり足をさすったりと忙しそうだ。
「掃除機持ってきてくれてありがとう。本棚と本を戻したらそれかけないとね」
「そうですね。本棚の裏って、結構埃たまるんだなぁ」
「大掃除でも動かさないからね、これ。さて、無駄な抵抗だけどご機嫌で帰ってくる姫子ちゃんに心配かけるのは本意じゃなし、片付けよっか。お手伝いよろしく」
「了解です。
姫子ちゃん、ご機嫌で帰ってくるんですか?」
「うん。お饅頭もあるよ」
彼の携帯にはお土産情報も届いていたらしい。年季が違うなと若干の疎外感を覚えながら、とりあえず足元の本を拾った。なにはともあれ片付けはしないといけない。
二人で無駄口をたたきながら、せっせと本を移動させる。足場を確保したところで、本日二度目のせーののかけ声とともに本棚を壁にぶつけるくらいのつもりで思い切り持ち上げた。ゴンと音を鳴らしつつも、ぐらつくことなく姿勢を正して立ってくれた本棚くんに感謝したい。
「肩に来るね、これ」
「手のひら痛い…… えーと、あとは本の収納ですけど、並び順ってどうなってるんですか?」
「適当でいいよ。部屋から出さなきゃOKだから、こんなのは」
なるほど、と頷いて質問を一つ。
「よく家中に置きっぱなしになってる本は?」
「あれは置きっぱなしなんじゃないよ。ちゃんとわかってるから」
「姫子ちゃんがよく怒ってますけど」
「いつも元気がいいからねぇ」
誤魔化している自堕落な大人にため息をつく。まあ、適当でいいというなら、やることはただの詰め込み作業だ。さして時間はかからないだろう。
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