不本意ながら襲われていますが......何か?

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 音もなく雪が舞う林の中では、佳蓮の荒い息遣いだけがやけに大きく響いていた。  そして佳蓮は、人が一線を超えるということがどういうことか身をもって知った。  そこには怖さも恐れもなかった。ただ脳裏に浮かぶ生まれ育った故郷の光景だけが、もう戻れないことを知らしめているかのように、やけに鮮明だった。  夕陽に反射してキラキラと輝く穏やかな海辺。  小学生の頃から変わらずキッチンの壁に掛かっている5分進んだ猫の壁時計。  潮風のせいですぐに錆びてしまう公園のジャングルジムとブランコ。  マンションの駐輪場で一際目立つ、買ってもらったばかりの真っ赤な自転車。  高台ある通いなれた高校まで続いている桜並木。  その全てを自分の意思で置いて出てきたわけじゃない。  自分だけがそこから弾き飛ばされてしまったのだ。そしてその先にあるのは、見てはいけない闇の底。  そんなもの誰が好き好んで見たいと思うのだろうか。こんな感情知りたくもなかった。  だから佳蓮も、そうした相手に同じ思いをさせたかった。遠くに送ってやりたかった。後悔なんていう言葉では足りない何かを味わって欲しかった。  対してアルビスは、馬乗りになって自身の首を絞めようとらしている佳蓮から逃れようとはしなかった。  当然の報いだと思っていた。  そして、かつてアルビスは、シダナから佳蓮が元の世界に戻りたい理由を聞いた時、誰でも良いから自分を断罪して欲しいと願った───それがようやっと叶う時だとわかっていた。  だからアルビスは、佳蓮に向け自分の罪を再び吐露する。佳蓮が戸惑わないように。 「私は君から沢山のものを奪った。未来、時間、願い、祈り。家族との絆。それだけでは飽き足らず、私は……君の家族の人生も滅茶苦茶にした。……私は君一人だけを奪ったつもりでいたが、そうじゃなかった」  アルビスは静かに語った。  佳蓮はそこそこの力を入れて、アルビスの首を絞めている。かなり苦しいはずだ。  なのに、アルビスはそんな素振りは一切見せない。  もう何度も極刑を受けたかのような凪いだ表情だった。深紅の瞳は清らかな程澄んでいた。 「……なに、今更わかりきっったこと言ってんの?」  佳蓮は掠れた声で、アルビスを嘲笑った。  もう呆れた感情を通り越して、いっそ滑稽だった。だが、その通りだった。  失ったものは、とても大きいのだ。  犯罪がなぜ罰せられるのか。そんなものは簡単だ。被害を受けるのは当人だけじゃないからだ。それに繋がる多くの人間が苦しみ悲しむからだ。 「ああ。本当に今更だ。……カレンすまなかった。私は君を欲した。それに後悔はしていない。ただ、罪を償わなくてはならないのも事実だ。カレン、私は皇帝だ。無様に命乞いをする気はない。私の人生は暗く……みじめで哀れなものだった。……けれど、君の手で幕を降ろしてもらうなら悪くない」 「そう」  アルビスは明確に自分を殺せと言った。佳蓮とてそれを否定するつもりはない。  この男はそれくらいの事をしたのだ。  ロタを殺さないでと言ったそれと矛盾しているようだけれど、それは違う。ここにいる2人は純粋な被害者と加害者なのだ。  殺人は絶対悪である。けれど、これは因果応報ともいえる。  「私、あんたから地位も未来も何もかも全部奪ってやりたい。大切な人から引き剥がしたいっ。憎くて憎くてたまらないっ。目の前から消えて居なくなって欲しいっ」 「そうだ。それが正し───」  佳蓮はこれ以上、アルビスの戯言を聞きたくなくて指に力を入れた。がっしりと太い首が面白いくらい押しつぶされていく。  ここでようやく、がふっとアルビスの喉が鳴った。けれど、アルビスの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。  自分を殺そうとしている相手に、愛おしい眼差しを向ける。今、アルビスの表情を見た者は、100人中、100人が幸せそうだと口をそろえて言うだろう。  もちろん佳蓮も例外ではなかった。それが無性に嫌だった。これ以上、自分の意思とは無関係に、この男が望む何かを与えたくはなかった。  だから指先が白くなり、力の入れ過ぎで痙攣している手を無理矢理、アルビスの喉元から引き剥がした。  次いで、渾身の力でアルビスの頬を引っ叩いた。 「馬鹿にしないでっ!私はあんたと同じところになんか堕ちたりしないっ」  人はどんな死に方をしても、罪と罰は残る。  けれど、佳蓮に殺されたアルビスは、加害者であることは消えない事実だが、被害者にもなってしまう。これも消せない事実だ。  こんな男と同じ立ち位置になるなんて冗談じゃなかった。  「あのさぁ……皇帝陛下さん、自分が楽になりたいからって、私を利用するのはやめてよね」  憎悪で支配された佳蓮とて気付いた。それくらいアルビスはあからさまだったのだ。  アルビスの挑発に乗せられてたまるものか。  そして罪人がただの死体となって転がることなど、佳蓮には耐えられなかった。  死よりもっと辛い苦痛を与えたかった。
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