彼誰時

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彼誰時

君からもらった最初の挨拶は「はじめまして」だった。 人見知りで緘黙な僕が、初対面の相手にその言葉を返すのにどれだけ緊張しただろう。 月日が流れ、親しくなるにつれて君からの挨拶の種類も増えていったものだ。 会う度に言ってくれる「こんにちは」や「お疲れ様」は嬉しい。ただ、「さようなら」や「おやすみなさい」と言われるのが嫌だった。それは別れの挨拶だからだ。 2人きりで初めて旅行に行った日の朝を覚えているだろうか。まだ西の空に星が残る薄暗い早朝、太陽の淡いと共に姿を現した誰かが、大きな荷物を持って待ち合わせ場所に立つ僕の元へ走ってきた。 彼が誰か訊かなければ判らない、薄暗い朝方を彼誰時(かわたれどき)というらしい。 「おはよう、いい朝ね」 君の声がした。 近づくにつれてぼやけていたその顔が、ようやくはっきりと見えた。 急いでやってきた君は、息を弾ませて少し照れながら笑った。その健気さがどんなに愛くるしかったことか。 僕はあまりに恥ずかしくて返事をすることができなかった。挨拶を返さない方が、大人として常識がなく恥ずべきことだというのに。 その日は素晴らしい1日だった。今まで生きてきてこんなに清々しい気持ちになったことがないほど、過去の嫌なことが全部くだらなくて忘れられるほど、幸せな日だった。 当日は電話もメールも簡単にはできない時代だった。不便だとは思わない。声を聞くだけでなく、文字を読むだけでなく、会って君を身近に感じられるのが1番いいに決まっていたから。 いつか同じ屋根の下で、毎朝「おはよう」と言ってもらえたらどんなにいいだろう。若かりし頃はそんな密かな恋心と期待を抱いていた。 それから50年間夫婦をして、文字通り同じ屋根の下で何度も君と朝を迎えた。 時に喧嘩をしたり、仕事や家事でいっぱいになったり、病気になって寝込んだりして君の「おはよう」をお預けになった日は、決まって最低な1日になった。大雨が降る、車をぶつける、仕事が上手くいかない、ついでに犬のフンを踏むなど。 どうやら君の挨拶には不思議な力が宿っているようだ。 「おはよう、いい朝ね」 ぶっきらぼうな僕は50年経ってもちゃんとした返事をしない。せっかく挨拶をしてくれるのに「ああ」とか「うん」とかつまらない相槌を打つだけなのだ。大人げないったらありゃしない。 こんな男に愛想を尽かさず、長年連れ添う君を尊敬する。しかし感謝の言葉1つかけることができない。 「夏目漱石はI LOVE YOU を月が綺麗ですねと訳したそうよ」 「ああ、そう」 朝食の時、君が突然そんなことを口にした。僕は新聞を読みながらまたつまらなく生返事をする。 「あなたは何て訳すのかしら?」 茶碗にご飯をよそいながらわくわくしたように君が言う。今ではプロポーズをしたかどうかすら忘れてしまっているというのに。馬鹿だなぁ、いつまでも若い気をして。 「英語をそのまんま日本語に翻訳することを訳すと言うんだ。ギブミー」 僕は手を差し出して米の入った茶碗を受け取る。 結婚する前も、結婚した後も浮かれた台詞を口にしたことがない。言わなくても伝わるものだと思っていたから。 でも、ある日君が倒れて初めて自分の言葉足らずさを恨んだ。 しばらくの間、病室で目を覚まさない君の傍らで独り後悔していた。 もし、君がいなくなってしまったらこの積もり積もった言葉の瓦礫を、どう崩せばいいのかそればかりを考えていた。 君は「I LOVE YOU 」を「おはよう」と訳していた。1日いい日になりますようにと願いの込めた挨拶を、何十年も僕に伝えてくれていたのに、知っていたのにそのむず痒さから無視をしていた。 旅行に行くのに待ち合わせしたあの日、彼誰時に言ってくれた「おはよう」も、すでにそういう意味を込めていたのかもしれない。 独りで寂しく迎える毎日なんて耐えられない。 君がいない朝なんて、真夜中と同じだ。 そのことを失ってから気づくのではなくて、失いそうになって気づいて本当に良かった。 ようやく目を覚ました君は、ゆっくりと時間をかけて前のように元気になった。また2人で朝を迎える毎日が戻った。 「皺が増えたなぁ」 気づかないうちに君の顔は皺だらけになっていた。これまで苦労をかけすぎたのかと心配になったが、それは間違いだった。 「挨拶をした数だけ刻まれているのよ。あなたの顔はつるつるね」 君はくしゃりと笑いながら悪態をついた。でも、嫌な気は全くなくて、やはり君を心の底から愛くるしいと思った。 楽しいことばかりじゃない、辛いことばかりでもない。 僕らの限りある1日1日が、少しでもいい日になるように言葉に出して願うのだ。 まだ空が白む時間、彼誰時に君より少し早く起きて朝を迎える。今までやってくれた分、いやそれ以上に恩返しをするため、台所に立って2人分の朝食を作る。 テレビをつけると明るいニュースが流れていた。そろそろ君が起きる頃。早くこのニュースを教えてやりたい。 僕はそわそわして、ついには待ちきれず君を起こしに部屋へ行く。 きっとまた最高の1日が始まる。 さて、今度は僕が顔に皺を刻む番だ。 「おはよう、いい朝だ」
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