172人が本棚に入れています
本棚に追加
/57ページ
9 浮気
夫が浮気をしているという噂を聞いた時、舞はひどく驚いた。
浮気に驚いたのではない。その話を聞いても、ああやっぱりという気持ちの方が大きかったことに驚いたのだ。
でも、その相手が誰なのかまでは考えが及ばなかった。どうせ以前不倫していた女だろうと思っていた。
けれどそうではなかったのだ。
「言いづらいんだけど、あなたの旦那さん、成瀬さんの奥さんとこっそり会っているみたいよ」
同じマンションの住民からそう聞かされた時、さすがに強い衝撃を受けた。
中学時代のしのぶの地味な姿を思い浮かべ、そんな馬鹿なという気持ちになる。けれど、今の色っぽくなった綺麗なしのぶの姿を思い浮かべると、彼女の大胆な行動も別段意外でもないような気になってしまう。
それでも夫の浮気相手がしのぶだと聞いて舞は困惑した。
いつの間に二人は交流を深めていたのだろう。
問いただしてもはぐらかされるとわかっていたから、自分の目で確かめるしかない。
休みの日、裕太は友人と会うと言って出かけて行った。舞はそれを笑顔で送り出し、仲のいいママ友の家に息子を預かってもらっている内にこっそりと後をつけた。
もう裕太に期待を持っていないけれど、相手がしのぶだったということがショックでならない。
裕太は駅前で誰かと待ち合わせをしており、舞は少し離れた所から様子を伺った。
本人の話を信じるのなら、今日来るのは隣人ではなく裕太の男友達だ。だけどやって来たのは見覚えのある女だった。
「お待たせ」
前に偶然見かけた時と同じく、華やかにめかし込んだしのぶが現れた。
ここからでは二人がなにを話しているのかまでは聞こえない。ただ、夫が家にいる時とは違ってとても楽しそうにしているのだけはよくわかった。
目の当たりにした現実に眩暈を覚える。
夫への不信感か、あの女への嫉妬心か、よくわからないもので頭の中がぐちゃぐちゃする。
それからも気付かれないように後をつけて、二人がホテルに入るところまで見届けた。
証拠写真もスマホにおさめたけれど、それ以上どうすればいいのかもわからなくて、ふらふらとその場を後にした。
やっぱりあの女はそういう人間だったのだ。夫がいるのに他の男と会うような人。以前しのぶが会っていた男性も本当に彼女の兄だったのか疑わしくなってしまう。
なにが「悪魔と話をしたことがある」だ。しのぶの方が、よっぽど悪魔のような女ではないか。
それに誘惑される裕太も裕太だ。
これまでも頭に離婚がちらついたことは何度かあるが、可愛い子供のこともあって別れずにいたのに。
呆然とした頭で、舞はどうにかママ友の元に太一を迎えに行った。
友達と遊び疲れて眠たそうにしている太一の手を引いて、マンションまで戻って来た。
スマートフォンには、二人が一緒にホテルに入っていく証拠写真も残っている。これを裕太に突き付ければ、誤魔化すこともできないだろう。だけど彼への強い落胆で胸が痛くなる。
自分の愛した男は、あんなにも不誠実だったのか。
今まで耐えてきたのは確かに太一の為だった。でも舞の中に、まだ裕太への愛情が残っていたのだと気が付いた。
その愛情が消え失せていくのを、舞は静かに感じていた。
「ママ、どうしたの?」
後は部屋の中に入るだけというところで、太一が眠そうな目をこすりながら聞いてきた。
この子は自分の父親がなにをしたのか知らないのだ。
「うぅッ」
こらえていたものが一気に瞳からあふれ出てしまう。
中に入る気力もなく、ドアの前にしゃがみ込んで舞は泣きじゃくった。
「ママどうしたの? どこか痛いの?」
おろおろと太一が顔を覗き込んでくる。子供みたいにぐずりながら、舞は息子を抱きしめた。
「坂本さん?」
やや驚きを含んだ声に顔を上げると、成瀬が不思議そうにこちらを見下ろしていた。どこかへ出かけるところだったのか、あるいは帰って来たばかりなのだろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ、ご、ごめんなさい! なんでもないんです」
ばつが悪くなってしまい、舞は慌てて立ち上がる。
太一の手を引いてとにかく部屋に入ろうとするが「ちょっと待ってください」と言われ成瀬に肩をつかまれた。
「よかったら、うちに上がっていきませんか?」
びっくりして相手の顔を見る。こちらがなにか訳ありだとすぐに察したらしく、成瀬は優しく目を細めた。
「なにか悩みがあるのなら、お話をうかがいますよ」
最初のコメントを投稿しよう!