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外伝6 運命
佐藤には妻と娘がいた。
あの頃はとても幸せだったのに、彼は過ちをおかした。
当時、彼に好意を寄せる女がいたのだ。若く、魅力的で、貪欲な女だった。
佐藤は家族を大切にしていたが、仕事の忙しさもあって疲れていた。そこにあの女が入り込んで来て、こちらが既婚者なのを知っているくせに求愛して来たのだ。
若い女に言い寄られて佐藤も調子に乗ってしまい、一度だけ夜を共にした。
それからも何度も彼女に誘われたが、佐藤はひどく後悔していた。これ以上家族を裏切ることも出来ず、彼女との関係を断とうとした。
「どうして? あの夜は確かに愛し合ったでしょ!」
女は自宅にまで押し掛けて、佐藤を激しく責め立てた。佐藤にとってはほんの出来心に過ぎなかったが、向こうは本気だったのだ。
「私にはあなたの子供がいるの! 本当よ!」
もちろんこの話は嘘だったのだが、それからも女は近所でも変な噂を流しては佐藤を追い詰めた。
更には妻に嫌がらせをしたり、娘に危害を加えようとしたりで、トラブルは大きくなるばかり。とうとう妻は幼い娘を連れて出ていった。別れたくはなかったが、これ以上一緒にいて苦しめてしまうのも嫌だった。
かと言ってその後あの女と結ばれたわけではない。むしろ自分の人生を壊した女だと思って憎んだ。
妻がいなくなったのに佐藤から拒まれ、彼女は怒り狂った。
「死んでやる! 私を選んでくれないのなら、自殺してやる!」
しばらくして、女は姿を現さなくなった。
「そして佐藤さんの知らぬところで、彼女は本当に命を絶ってしまいました」
淡々と語られる話を聞きながら、しのぶは目の前の光景を眺めていた。
まず佐藤が倒れており、先ほどまで佐藤に貼りついていた謎の女と、それを後ろから押さえつけている男。
「本当に愚かですね。死を選ぶのなら、愛する男に確実に知られるようにしないと。私ならわざと己の死を見せつけて、彼の心に永遠に自分を刻むのに」
女はさらりと恐ろしいことを言いながら、さっきまで佐藤にくっついていた存在を楽しそうに眺めた。
「お気の毒に。宿主から引き剥がされて、あっという間に弱ってしまいましたね」
「う、うああぁぁっ」
いわゆる悪霊と呼ぶものなのであろうそいつは、苦し気に呻いている。
「どうして、どうしてぇ? 彼の元へ戻して」
濁り切った醜い声にぞくりとする。こいつがずっと佐藤と共にいたのかと、しのぶは怯える。
けれどそこへ男が囁いた。
「大丈夫、俺はここにいるよ」
そいつはびくっと全身を震わせた。男は微笑み、そっと彼女を抱き寄せた。
「こんなにも俺を思ってくれていたなんて、嬉しいよ」
「あ、あぁ」
悪霊の女は、どこか恍惚とした様子になる。
一体なにをしているのだろうと不思議に思うが、どうやら彼は佐藤のフリをしているようだ。
「ずっとキミのそばにいる。もう誰も、俺達を引き離せないよ」
男は優しい言葉をかけて、相手を落ち着けようとしている。
相手を完全に佐藤だと思っているのか、悪霊の口元が醜く歪んだ。顔をほころばせたのだろう。男はそっと彼女と唇を重ね合う。
「アァ、嬉しイ。サ、トウさん」
けれど、最初はうっとりとしていた悪霊は、やがて激しく苦しんで男の腕の中でもがき出した。
「これ以上は、見ない方が良いでしょうね」
しのぶの後ろからそっと女の手が伸びて来て、目元を優しく覆った。
姿は見えないが、おぞましい声をあげて身悶えているのがわかる。一度耳にしたら一生心に刻み付けられるような、物凄い断末魔だ。
ひどく恐ろしい光景がそこには広がっているのだろう。しのぶはただ息を呑んで、その時間が終わるのを待ちわびた。
――それからどれくらい経ったのか、さっきまで張り詰めていた嫌な空気が、ふっと軽くなるような感じがした。
女が手をどけると、さっきまでのあの存在は消えてなくなっている。
「終わりましたよ」
にこやかに答える男に、どきどきしながらもしのぶは訊ねた。
「彼女はどうなったの?」
彼はほんの少しだけ笑みを深くする。
「それを知る覚悟がありますか?」
しのぶはゾッとした。
「いいえ」
たぶんそれは、しのぶが知るべきではない世界だ。
だけど勝手に想像する。たぶん彼女のよどんだ魂は食いつくされたのだ。
なんの根拠もなく、ただそう思った。飽くまでもしのぶの勝手な想像だけれど。
「う、ああ」
意識が戻ったのか、佐藤がもぞもぞと身を起こした。
「佐藤さん、大丈夫?」
しのぶが顔を覗き込むと、佐藤は呆然と頷いた。
「あの女は」
「消えました」
佐藤は、力ない様子で頭を抱える。
「そうか、あれはずっと俺に憑いていたんだな」
暗い表情で佐藤は長い長い息を吐いた。
「妻と別れて少ししてから、ずっとおかしな感覚だった。いつもなにかに見られているようで、怖くて落ち着かなかった。体を壊して働けなくもなったが、それもあいつのせいだったのかもな」
佐藤はつくづくと首を左右させる。
「俺が全部悪かったんだな。最初から彼女を拒んでいたら、こんなことには」
「はい、その通りです。彼女の暴走のきっかけとなったのは紛れもなくあの夜に一線を越えたせいですね」
女は容赦のないことを穏やかに語った。
項垂れて顔を上げることも出来ない佐藤を見下ろして、彼女は心から嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。あなたのおかげで私達はとても楽しい時間を過ごせました」
けれどそれから佐藤に顔を近付けて囁いた。
「さぁ、これまでのことは長い長い、悪い夢のようなもの。だけどもう大丈夫。あなたの中からこの出来事を消していいのですよ」
ゆっくりと、佐藤の瞼が落ちていく。
「咲子さんは何度もあなたに手紙を送っていました。読むことは出来なかったけれど、全て取ってあるのでしょう。次に目を覚ました時、目を通してあげて下さいね」
そこで佐藤は再び床に突っ伏した。彼は完全に眠りについてしまったみたいだ。
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