6 後悔

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 それからもなんとなく嫌な気持ちを抱えながら、舞はようやく日曜日を迎えた。  今日は裕太が太一と遊んであげる約束をしていた日だ。  けれど当日になって面倒くさくなったのか「お前が母親なんだから相手してやれよ」と言って嫌がった。 「ごめんね太一。パパは風邪ひいちゃったみたいだから、今日はママが遊んであげるね」  可愛い息子が落ち込まないように嘘をついたが、当の太一はむしろホッとしているように見えた。 「いいよ。だってパパすぐ怒るもん」  心なしか最近息子から笑顔が減った気がする。まだ幼い子供なのに、つらい思いをさせているのかもしれない。  せめてこの子に寂しい思いをさせないようにと決意して、舞は裕太の代わりに太一を公園へ連れて行くことにした。 「!」  先に外へ飛び出た太一が、いきなりビクンと硬直した。後に続いて外へ出た舞もハッとしてしまう。 「あら、こんにちは」  ちょうど隣の部屋からしのぶが出てきたところだった。太一は体を震わせて舞の後ろに隠れてしまう。 「ああ、坂本さん」  しのぶと一緒に彼女の夫も出てきた。こちらに気付いて、彼は愛想よく会釈をしてくる。  緊張を悟られないように舞は笑顔を作った。 「ご夫婦でお出かけ?」 「一緒に映画を観に行くの」  しのぶはにこやかに答えると、太一に視線を合わせて笑いかけてくる。 「こんにちは、太一くん。あなたもお出かけなの?」  太一は大声で泣き出した。なにかが破裂するような激しい声だ。 「こら、太一」  慌ててなだめようとするが、どれだけ必死に言い聞かせても太一はわんわん泣くばかりだ。少し困ったようにしのぶが笑うのを見て舞はおろおろする。 「ご、ごめんなさいね。いつもはこうじゃないんだけど」  舞の言い訳に、しのぶは「いいのよ」と答えた。彼女は一切の動揺を見せないし、気分を悪くした様子もない。 「太一くん、お母さん困ってるよ」  しのぶは太一の目を覗き込んだ。 「さ、泣き止んで」  その一言を聞いた瞬間、さっきまでの様子が嘘のように太一はぴたりと泣き止んだ。一連の流れに舞の方が驚いてしまう。 「え、え?」  舞がどれだけ言っても泣き止まなかったのに、しのぶはたった一言で太一を黙らせてしまった。大きな声で叱りつけたわけでも、威圧的な言葉をぶつけたわけでもないのに。  太一は呆然とした様子でしのぶを見上げている。 「ふふ、いい子ね」  彼女はただただ優しく笑っているだけだ。  その優しい笑顔の裏になにかが隠されているような気がしたが、それがなんなのかは見当もつかない。  それからエレベーターに一緒に乗り、マンションの入り口のところで成瀬夫婦とは別れた。  彼女に言い聞かされただけで太一は本当に泣くのをやめたが、それ以降は一言も喋らなくなった。黙り込んだままなにかに怖がっているのだ。  公園へ行く道の途中で、舞は表情に怯えが見え隠れしている息子に問いかけた。 「太一、さっきはどうして泣いちゃったの?」 「あのお姉さん、怖いの」 「でもその後すぐに泣き止んだよね」 「だって、怖いから」  太一自身も混乱しているみたいだ。  彼女に言い聞かされて、なにか逆らえない畏怖のようなものを感じ取ったのだろうか。 「どうしてそんなにお隣さんを怖がるの?」  繋いでいた太一の小さな指が、ぎゅっと舞の指を握りしめてくる。思っていたよりもずっと怯えているようだ。 「お化けみたいなんだもん」  舞は背筋がゾッとするのを感じた。  脳内によみがえって来たのは鏡越しにこちらを見ていた白い靄だ。あの時に見た白いなにかと、太一がしのぶをお化けのようだと言っていること、昔しのぶが霊感があると自称していたことに、なにか関係があるのだろうか。  そこまで思考して舞は首をふるう。 「それは気のせいだよ。お隣さんは、お化けなんかじゃないからね」  先日見たものはただの気のせいだった。実際になにもいなかったではないか。  太一がしのぶを怖がるのも、まだ幼いから現実と空想の区別がついていないだけ。 「大丈夫、なにも怖がらなくっていいのよ」  太一に言い聞かせるのと同時に、舞は自分自身の心にも言い聞かせていた。  それでも得体の知れない嫌な感覚はいつまでも舞にまとわりついていたけれど。
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