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8 誘惑
ある穏やかな午後、舞は太一を連れてデパートへと出かけていた。
本当なら裕太にも一緒に来てもらいたかったが、彼は久しぶりに学生時代の友人達に会うと言って遊びに行ってしまったのだ。太一と遊んであげるという約束をしていたくせに、それは果たされないままだ。
もっとも太一自身、裕太との時間をあまり望んでいないようだけれど。
それでも好きなヒーローのおもちゃを買ってあげたおかげか、今日は珍しく太一の表情も明るい。
幼稚園の先生にも、最近太一に元気がないと指摘されたばかりだ。だから可愛い息子の楽しそうな表情を見れて舞も嬉しくなる。
買い物を済ませた後、二人は一緒にランチをしてから家に帰った。
けれどバスを降り、マンションへの道を二人手を繋いで歩いていたところで唐突に声をかけられた。
「坂本さん!」
聞き覚えのある男性の声に振り返ると、にこやかな表情を浮かべた成瀬が少し後ろの方から歩いて来た。
「あ、こんにちは」
ぺこりと舞は会釈をし、太一にもお辞儀をさせた。成瀬は気さくに話しかけてくる。
「こんなところで会うなんて奇遇ですね。どこかへ出かけていたんですか?」
「ええ、まぁ」
まさか成瀬と鉢合わせるなんて思いもしなかったから、曖昧な返事になってしまう。
だが幸いなことに今日は彼の隣にしのぶはいない。あの得体の知れない女と顔を合わせずに済んだことに、舞は密かにホッとしていた。
成瀬は中の膨らんだエコバッグを持っており、買い物帰りであることがうかがえる。
「成瀬さんはお買い物だったんですね」
「はい。今日は妻に手料理を振る舞おうと思って、色々と買って来たんです」
「お料理なさるんですか?」
「時々ですけどね。しのぶも僕の料理をおいしいって褒めてくれるんですよ」
舞は胸がぎゅっとしてしまう。
成瀬は朝のゴミ出しだけでなく、料理までしてくれるのか。もしかしたら、他の家事も手伝っているのかもしれない。
裕太とは大違いだ。
結婚前は、家事は二人で協力しながらやっていこうと約束していたのに、その約束は彼の中ですっかりなかったことにされている。別にそれならそれで構わないが、時々裕太は自分のことを、妻ではなく家政婦かなにかだと思っているのではと考えてしまう。
舞の中で暗い気持ちが広がっていく。
もう彼に求められることはほとんどなくなった。舞の方から誘おうとしても、疲れているからと言って拒まれる。夫婦の営みは舞の気持ちを無視して、裕太の気分次第でしか行われない。
自分とは違い、きっとしのぶは毎晩この人に求められているのだろうと、下品なことを考えてしまう。
「坂本さん?」
首を傾げられ、舞は慌てて取り繕った。
「料理上手なんて素敵ですね。尊敬しちゃう」
「ありがとうございます」
にこやかに笑う成瀬に相槌を打ちながら、舞は必死に火のついた嫉妬心を振り払おうとする。
そもそも、しのぶはどうやってこんな相手を手に入れたのだ。
昔はなにを考えているのかよくわからない子で、それこそクラスの男の子にはからかわれるような対象だったのに。
この人は、当時のしのぶについて知っているのだろうか。
むくむくと嫌な感覚が湧き上がるのをおさえられない。
「ねぇ成瀬さん、しのぶさんの昔のこと、知っています?」
少し意地悪な気持ちが生まれて来る。
自分でも、よせと思う。十五年も前の話なんか聞かせてなにになるのだと、頭の片隅では思っていた。
それでも当時のしのぶの話を聞かせたら、どんな反応を見せるのか気になった。
今でこそすましているけれど、昔は地味で痛々しいことを言うような子だったのだ。
「あの子ちょっと浮いてたっていうか、変わった子でしたよ。友達も少なかったみたいだし、たまに変なことを言ってみんなに笑われてたんです」
成瀬の顔に一瞬だけ驚きの色が浮かぶのを見て、ちょっとばかり舞はしてやったりな気持ちになる。
けれど成瀬はすぐに冷静な声で答えた。
「しのぶに霊感があるとか、幽霊と話をしたことがあるとか、そういう話ですか?」
成瀬の答えは舞にとって意外なものだった。
まさかそんな風に返されると思っていなかったから、さすがに狼狽えてしまう。
「えっ? あ、知っていたんですね。その話」
てっきり、成瀬は今のしのぶのことしか知らないものだとばかり思っていた。彼女が痛々しい言葉を口にしていたなんて、夢にも思っていないはずだと勝手に決めつけていた。
「もちろん、しのぶが変わり者だったという話も知っています。それが原因で、周囲から奇異の目で見られていたことも」
成瀬の声は静かだが、なんだか責められているような気になってしまう。
さっきまでの意地悪な気持ちは急激にしぼんでいき、今度は罪悪感が広まっていく。
「あの、ごめんなさ」
「それでもしのぶは、僕にとってかけがえのない存在ですから」
目を細めて、成瀬は柔らかく笑った。
初めて見る表情だ。どこか切な気だけれど慈愛に満ちていて、優しい。
その顔を見ただけで、彼がいかにしのぶを愛しているのかを悟ってしまう。
「ごめんなさい」
もう一度、舞は謝った。
しのぶのことが妬ましくて堪らなかった。ほんの少しばかりだが彼を横取りしたいという気持ちがあったのも確かだ。
けれど成瀬のしのぶへの思いは、とても尊いもののように感じた。
そこに自分が割って入るなんて、ひどくおこがましいことだ。
舞は悔しさを感じるのと共に、己の浅はかな考えを恥じた。
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