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夜になって、裕太はようやく帰路についた。
今日は久しぶりに友人達と遊ぶことが出来て楽しかった。やはりたまには、あの窮屈な家庭から解放されないとやっていられない。こっちは毎日仕事で疲れているのだから、休みの日くらい羽を伸ばしてもいいではないか。
それなのに舞は不満そうな目をするし、太一はすぐにぐずり出す。
結婚したせいでとんだストレスを抱え込むことになってしまったと、裕太はうんざりと思っていた。
「あら、坂本さん」
あと少しでマンションにつくというところで、一人の女性に声を掛けられた。振り返ると、隣人の成瀬しのぶがどこか嬉しそうな顔でこちらに近付いて来た。
「あ、ども」
予想外の人物と鉢合わせた。
今日のしのぶは着飾っており、艶やかな化粧を施している。彼女もどこかへ出かけていて、たった今帰って来たところのように見える。
「どっか行ってたんすか?」
しのぶはにこりと笑った。
「実はあなたが帰って来るのをここで待っていたんです」
「え?」
目を丸くする裕太に、しのぶはくすくす笑った。
「ふふ、やだ。冗談ですよ。ごめんなさい、ストーカーみたいなこと言っちゃいましたね。さすがに引いたでしょ」
その答えに、裕太もあははと笑う。
「むしろストーカーしてもらえたら幸せっすね」
「今日は私も出かけていて、ちょうど今帰って来たところなんです」
それからは二人並んで会話をしながら、マンションまでの道を歩いた。
最近すっかり色気のなくなってきた舞と違い、しのぶからはどこか妖艶さを感じる。
つい鼻の下を伸ばす裕太の視線を感じたのか、しのぶは目を瞬かせた。
「なにか?」
「あ、いや」
ドギマギしてしまう裕太に、しのぶは優しく目を細める。そんな仕草も魅力的だ。
しのぶは清楚で美しく、はりのある肌やつやつやした髪をしていて、とても舞と同い年とは思えない。
舞は彼女をよく思っていないようだが、勝手にひがんでいるだけだと思う。もっと自分をよく見せる努力をすればいいのに。
裕太は勝手に舞としのぶを比べて、勝手に舞に落胆していた。
二人は談笑を交わしながら一緒に歩いて行く。
ほとんど裕太ばかりが喋っていたのだが、しのぶはこちらの話に耳を傾け、気持ちの良くなるタイミングで相槌をくれる。
とても聞き上手なのだろう、知らず知らずの内に裕太は饒舌になっていた。
「ほんと、成瀬さんが羨ましいな。こないだ食べさせてもらったしのぶさんの手料理もすげーうまかったし」
「気に入っていただけたなら良かった」
しのぶに笑顔を向けられて裕太は気分が良くなる。
その内に彼はしのぶを褒める為に、舞をけなすようなことばかり言っていた。
「舞ってさ、ほんとなんにも出来ないんすよ。家事もろくにやらないくせに、すぐ苛々して俺のことばっかり責めてくるし」
「でも、舞ちゃんはとてもしっかりした子ですよ」
「いやいや、あいつ結構どんくさいし。もっとしのぶさんを見習って欲しいくらいです」
裕太には舞に対してなにも悪びれた気持ちはない。それがひどい言葉だという自覚すらなかった。
しのぶは舞のフォローをしつつも、裕太に褒められてまんざらでもなさそうな顔を見せた。
ほどなくしてマンションにたどり着き、エレベーターに入ったところでしのぶは裕太の顔を見上げた。
「あなたが私をそんな風に思ってくれていたなんて、すごく嬉しい」
裕太が思わずしのぶの方を見ると、二人の目と目が合った。裕太は胸がどきりとするのを感じる。
「もっとあなたのことを知りたい」
すっと、しのぶの細い指が裕太の腕を軽く撫でた。
「え」
「私にもっと、あなたのことを教えてほしいの。あなたがどんな人なのか、あなたの奥さんも知らないようなことを、全て知りたい」
裕太は頭がくらくらした。
こんな狭い密室で、二人きりの状態で囁かれた甘い言葉。
裕太がなにかを答えるよりも先にエレベーターが止まり、しのぶは先に降りて行った。
裕太は慌ててその後を追いかける。
「あの、今のって」
しのぶは部屋の前で一度振り返ると、美しい唇に弧を描いた。
「また今度ゆっくりお話ししましょうね、裕太さん」
しのぶは部屋の中に入っていく。
裕太は自分の胸の中に、不思議な気持ちが生まれるのを感じていた。あまりにも甘美な感覚に、なにも考えられなくなってしまう。
ぼんやりとした表情で裕太はその場に立ち尽くし、しばらくの間そのまま動くことが出来なかった。
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