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この部屋に上がるのは三度目になる。
一度目はしのぶに夕食に招かれた時で、二度目はしのぶに不倫のことを問いただした時。前の二回と違って、今この場に彼女はいない。
「どうぞくつろいで行ってください」
出された温かい紅茶に少しだけ気持ちが安らいだ。しのぶが不在なおかげか、横でジュースを飲んでいる太一も落ち着いている。
さっき部屋の前で鉢合わせたので、もしかしたら成瀬が出かける邪魔をしてしまったのかと心配になった。だが実際にはその逆で、彼はちょうど外出先から戻ったところだったらしい。
「しのぶさんとは一緒ではないのね」
彼女が今どこにいるのか知っているくせに、舞はそう言っていた。
「はい。僕はちょっと病院に行っていたもので」
「病院? あの、どこか具合が悪いの?」
「いえいえ、少し体調がすぐれないので念のために診てもらったんですよ」
成瀬は笑みを浮かべる。
具合が悪い夫を放ってよく別の男とホテルへ行けるものだと、しのぶへの苛立ちが沸き上がる。
「それで、なぜあんなところで泣いていたのですか?」
「たいしたことじゃないんです。ただその、恥ずかしながら最近夫とうまくいってなくて」
舞の中でむくむくと悪い考えが浮かんでくる。
いっそのこと、彼女にやり返してしまおうか。夫に手を出された仕返しに、今日見たことをこの人にばらしてしまおうか。
それくらいしても許されるはずだ。悪いのは裕太としのぶなのだから、彼女の家庭を壊しても問題ないのではないか。
「成瀬さん、もししのぶが」
けれどすぐ、隣にいる太一の存在を思い出して黙り込んだ。愛する我が子の前でなんて汚いことを考えているのだ。
「妻がどうかしましたか?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないんです」
咄嗟に誤魔化そうとしたが、相手はなにやら思案顔だ。
「坂本さん、妻のことなのですが」
相手の方から真剣な顔で切り出されて舞は驚いた。
「妻の噂はご存じでしょう。そのことで、相談があるのですが」
「それって、まさか」
「後日お時間をいただけますか? そろそろ妻も帰ってくるはずですし、それに」
成瀬はちらっと太一に視線をやり、少し声を潜める。
「さすがに、子供の前でできる話ではありませんからね」
その態度に舞は察した。
この人も、しのぶの浮気に気付いている。
「成瀬さん、あなた」
けれどそこでガチャリと玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
彼女の声だ。舞は身を固くする。
「あら、来ていたのね。いらっしゃい」
舞の姿を見てしのぶは微笑んだ。
人の夫とホテルにいたくせに、どの面を下げて戻って来たのだと言いたくて堪らない。
「なにか用でもあったの?」
同級生である自分に話があって来たのだとしのぶは考えたらしい。
なにも言い訳が思い浮かばない舞に、助け舟が出される。
「さっきたまたまお会いして話し相手になってもらっていたんだ。キミの同級生なんだろ、色々と聞きたくてね」
成瀬の言葉は確かに事実だ。しのぶも納得してくれたらしい。
「ごめんなさい、もう少しゆっくりしていきたかったけど、夕飯の支度をしないと。そろそろお暇させていただくね」
なるべくぼろが出ない内にしのぶの前から去ることにした。
それに、彼女の顔を見たくない。見たらなにをしてしまうか、なにを言ってしまうかわからなかった。
なるべくしのぶから顔を背けたまま、舞はそそくさとその場を後にした。
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