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外伝5 悪霊
それからも相変わらず隣人の娘夫婦は優しく、近所の人達も平穏に過ごしていた。
ただ唯一、しのぶだけが隣人宅でなにかきな臭いことが起きていることを知っている。
佐藤のことは元々苦手だった。それこそあの二人が来るまでは嫌がらせもされたし、怒鳴られたりしていた。いつも嫌な気持ちを抱えて、ずっと我慢してきたのだ。
このまま放っておけば良いではないかという気持ちも、ゼロではない。
それでもしのぶは隣の家を気にかけた。
幸い、佐藤が暴力を受けている様子はない。
しのぶは佐藤の言っていた「あの女」について気になった。祖父が生きていたら話も聞けたのだろうか。
祖父も生前は佐藤のことで手を焼いていたらしく、その苦労話を聞かされた人も多かった。だからしのぶは祖父と仲の良かった人達に、それとなく佐藤のことを聞いてみた。
佐藤は今でこそ人相が悪くなってしまったものの、昔は端正な顔をしていて女性からも人気があったらしい。
そして驚くべきことに、彼は既婚者でありながら他の女性と関係を持ってしまったそうだ。その女性とのトラブルで当時の奥さんはひどい嫌がらせも受けたらしい。
佐藤の妻はとうとう耐え切れなくなってしまい、まだ幼い咲子を連れて出て行った。
だが佐藤はその不倫相手と結ばれることもなく、今は一人で暮らしている。
その時の女はいつの間にかぱったりと佐藤を訪ねてこなくなったが、佐藤の性格が歪んでしまったのは彼女が原因だと言われている。
佐藤の言っていた「あの女」とは、その時の女性で間違いないだろう。
だけどますますわからなくなる。
佐藤はなぜあの二人に狙われているのか。
ひょっとしたら彼らは佐藤の不倫相手の関係者なのかもしれない。少なくとも佐藤自身はそう考えているようだが、確たる証拠もなく、それ以上の情報をしのぶは見つけられなかった。
「いってきまーす」
ある朝、しのぶはいつも通り学校へと出かけて行った。
けれど家を出てすぐに彼女はびくりと立ち止まった。ちょうど同じタイミングで、隣人宅から出てくる人物がいたのだ。
その人はしのぶの姿に気が付くと、にこりと笑いかけて来た。
「おはようございます」
あの女、ではない。
背の高い痩せ型の若い男。隣人宅にいる、あの男だ。しのぶは怯える。佐藤は確か男の方が厄介だと言っていたのだ。
「お、おはようございます」
挨拶をして、しのぶはそそくさと男の横を通り過ぎようとした。
「最近なにかとうちのことを嗅ぎまわっているそうですね」
しのぶは肩を跳ねさせた。
気付かれている。あの女にも忠告されたのに、それを無視したせいだ。
けれど男は責めるような口調ではない。むしろ少し、楽しんでさえいるみたいだ。
怖々としのぶは彼の顔を見上げた。男は口元に物柔らかな笑顔を浮かべている。
「妻はあなたに関わってほしくないと思っているようですが、俺は違いますよ。あなただって、あの人が気になっているのでしょう」
男の口調は紳士的で優しい。けれど感情も思惑もなにひとつ読み取れない。
あの女はこれ以上関わるのなら家族に危害を加えると言わんばかりだったのに、この男は違う考えを持っているようだ。
「学校から帰ったら、ぜひうちに来てください」
「え?」
「佐藤さんがあなたに会いたがっています」
しのぶは息を呑んだ。
「強制するつもりはありませんよ。でも、なにが起きているのかを知りたいでしょう。それを、見せてさしあげます」
しのぶは必死に頭を働かせる。
彼は一体なにを考えてこんなことを言うのだろう。
本気になれば、こちらになんだって言うことを聞かせられる。でも強制しないという言葉通り、無理にそうさせようとはしていないようだ。
しのぶが、自らの意思で行動することを求めているみたいだ。
「し、失礼します!」
結局、しのぶはそのまま逃げるようにしてその場を立ち去ってしまった。
だけど男から言われたことを、ずっと考えていた。
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