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帰宅後、しのぶは部屋に鞄を置くと制服から着替える間も惜しんで佐藤の家に向かった。
あの男は帰ったら訪ねて来いと言っていたが、見せたい物でもあるのだろうか。
怖々とチャイムを鳴らすと、玄関のドアを開けてあの男が顔を出した。
「よく来てくださいました」
男は笑顔でしのぶを中に招き入れた。
あまり広くはない家だ。掃除は行き届いていたが、家全体から不気味な空気を感じる。
おずおずと廊下を進んでいくと、すぐにあの女と遭遇した。
「どうして?」
しのぶの顔を見て、女は少し意外そうな顔になる。
いつもはもっと余裕のある目つきをしているのに、今の彼女はどこか不機嫌そうにも思えた。
「関わらないように言ったのに」
「あなたの、えっと、旦那さん? が、来るようにって」
実際のところ、この二人は夫婦なのだろうか。本当の関係を知らない。
女はあまり表情を変えなかったけれど、少し厳しい眼差しで男を見た。
「なぜ彼女を呼んだの?」
「あの人には手を焼いていたでしょう。このまま同じことを続けたところで、埒が明かないのは目に見えています。だから、彼女に協力していただこうと思って」
しのぶは弱々しい面持ちで訊ねる。
「協力って、なにをすれば?」
「佐藤さんになにかが憑いているのは、ご存じですよね?」
しのぶは驚いた。
「あれを引き剥がす為に出来る限りのことはしましたが、事態は悪化するばかり。だけどほんの少し、小さなきっかけがあればこの状況を打破できます。あなたならそのきっかけを与えてくれると思って」
「きっかけ?」
「あなたが正しいと思う言葉を選んで、彼に呼び掛けてあげてください」
しのぶは困惑した。
今一つ要領を得なかったが、ともかく二人に連れられて奥の部屋へ向かう。
暗い室内で畳の上に座った佐藤が、頭を抱えながらなにかをぶつぶつと呟いている。
なにを言っているのかはよくわからない。恨み言か、あるいは祈りの言葉だろうか。
「佐藤さん」
男が話しかける。
「しのぶさんを連れてきましたよ」
佐藤は顔を上げた。以前会った時よりもますます顔色が悪くなっている。
「さ、佐藤さん?」
恐る恐るしのぶは呼びかける。
それまでぶるぶると震えていた佐藤は、しのぶの顔を見た途端にいきなり歯をむき出して飛び掛かって来た。
「きゃあ!」
しのぶは叫んだ。
咄嗟に女がしのぶを庇い、男が後ろから佐藤を押さえつける。
「やっぱりこうなった。彼女を巻き込むべきじゃなかったのに」
女はじっと男を睨んだが、彼は態度を崩さない。
「しのぶさん、そのまま話しかけてあげてください」
「話せと言われても」
しのぶは悩んだ。
これがひどくおかしい状況だということはわかる。以前よりも、佐藤から発せられる嫌な感じが増しているのだ。
「さ、佐藤さん。隣の、西田しのぶです」
佐藤はまだ暴れようとしているが、しのぶは懸命に語りかける。
「ごめんなさい、あの、私あなたの過去について近所の人から聞いたんです」
ぴくりと反応する佐藤にしのぶは話し続けた。
「昔あなたが女性関係でトラブルがあったとか、そういうお話を聞きました。その一件がきっかけで、乱暴になってしまったとも」
この声はちゃんと佐藤に届いているのだろうか。緊張しながらもしのぶは続けた。
「私、ずっと前から佐藤さんを怖いと思っていたんです。よく問題を起こすし、怒鳴られたりしたし。でも、でもそれだけじゃない」
しのぶはどうにか声を絞り出す。
佐藤の息が荒くなっていく。ごくりと一度唾を飲み込んで、しのぶは言った。
「佐藤さん、あなたと一緒になにかがいるんです。それは黒っぽくて嫌な感覚で、不気味だと思っていた。それがなんなのか今までずっとわからなかったけど」
佐藤の体が大きく反応した。
「あなたのすぐそばに、女の人がいるんです」
そう、しのぶはずっとそいつに気が付いていた。
あまりにも形が曖昧で、その正体がなんなのかわからなかっただけで。
「くっ!」
佐藤をおさえていた男が、とうとう力負けして振り払われた。佐藤は再びしのぶの方へ向かってこようとする。
「もう大丈夫ですよ、佐藤さん」
しのぶは佐藤に手を差し伸べた。
「この前は、少し驚いてしまっただけ。でも大丈夫、私があなたを助けてあげます。だから、私の手を取ってください」
佐藤は呆然とした瞳になる。
助けられる根拠なんてもちろんない。だけど、自分が一番正しいと思う言葉を選んだ。佐藤を放っておけないという気持ちが、そんな言葉を紡ぎ出していた。
どす黒い闇が広がっていた佐藤の瞳に、希望が宿った。彼はなにかを言おうとしたけれど、言葉は出てこない。
その代わり、すっかりやつれてしまった手がおずおずとしのぶの手を取った。
「!」
瞬間、バチッという静電気みたいな音がして、佐藤の体から人の形をした黒っぽいなにかが飛び出してきた。そいつは真っ直ぐにしのぶに飛び掛かって来る。
しのぶは息を呑むが、すんでのところでそのなにかの腕を男が掴んだ。
「ふふ、ようやくあなたを捕まえることが出来た」
彼が手を引くと、佐藤にそれまで貼りついていた物が完全に引き剥がされた。
なにかが裂けるような音が部屋中に響き渡る。
それが、女の醜い悲鳴であるとすぐには気付けなかった。
「う、ぐッ」
佐藤は呻き声を漏らして倒れてしまう。
しのぶは激しく脈打つ心臓をおさえながら、目の前に現れたそいつを見つめた。
ぼさぼさの長い髪の毛に、やつれ果てた体。女性のような形を取っているが、姿は真っ黒で、人間の影が具現化したような姿のなにか。
これまでずっと佐藤にくっついていたそれが、今しのぶの目の前にいた。
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