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その偶然を引き起こしたのは裕太のわがままだった。
土曜日の夜、いつも買い置きしていた酒がなくて彼は機嫌が悪かった。
裕太は不機嫌になると自分にだけでなく、子供にもそっけなくあたるようになる。面倒になった舞が「今からコンビニでも行ってこようか?」と言うと、裕太の機嫌はあからさまによくなった。
「つまみも買ってきてよ。太一の面倒は俺が見ててあげるからさ」
言葉に、こちらを見下すような色が含まれていた。
別れたいという欲求が浮かぶのをどうにか堪える。まだ太一は小さいのだし、これが原因で将来息子がいじめに遭うようなことがあったらと思うと、簡単には踏み出せない。
結婚前には見せなかった夫の嫌な素振りが、結婚後になって目についてくることは珍しくもないらしい。
いや、兆候はあった。酔っていた時に裕太が語っていた高校時代の話。あの時嫌なものを感じていたのに、見て見ぬふりをしたのは舞自身だ。
だけどこうなってしまってはもう仕方がない。ちょっと我慢して、夫のご機嫌を取っていればいいだけ。
舞は自分に言い聞かせながらコンビニへ向かった。
その帰り道のことだ。
憂鬱な気持ちで横断歩道の信号待ちをしていた舞の目に、向かいの歩道を横切っていく一組のカップルの姿が目に入った。
最初、それがよく似た別人かと思った。あるいは夜の灯りの中で、ただ見間違えただけかと。
舞が驚きに息を呑んだ時、ちょうど信号が青になった。慌てて横断歩道を渡り、気付かれないようにそのカップルの後ろ姿を追いかける。
一メートルほどの距離まで近づいた時、舞は確信した。見知らぬ男の腕に手を絡めて歩くその女が、間違いなく隣人の成瀬しのぶであると。
男はすらりとした痩せ型で背が高く、小柄なしのぶは顔を上げて彼との会話に花を咲かせている。ちらりと見えた横顔から、しのぶが華やかに化粧を施しているのがうかがえた。
彼女の方から男の体にすり寄り、くすくすと楽しそうに、どこか艶っぽく笑い合いながら二人は歩いて行く。
興味本位で後をつけてしまったが、歓楽街へ入った辺りで彼らは人の波に紛れて見えなくなった。
裕太への苛立ちなどとうに消え失せ、舞の頭の中はしのぶのことでいっぱいになる。
あれを不倫現場と呼ぶには確証がない。
でもあの空気は、とうてい友人知人の間柄で出せるものではない。
昔と比べて彼女は美しくなった。
自信にあふれた一人の「女」になっていた。
だから結婚した後も、欲望に任せて夫以外の男性と逢瀬をするようになったのだろうか。
それ以来、舞の頭からこの出来事が離れなくなった。
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