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瞬間、寒気がした。慌てて、自分が着ていたスーツのジャケットを探り、襟の裏側に黒くて小さい盗聴器らしき機械を発見して、今度は「今日、私は禅さんと何を話しただろうか?」と自分の頭の中を探る。
ヤクザのことについては何も話していない、はず。私が禅さんから離れたら彼の噂を肯定したと見られるかもしれない。でも、音声を外に出されたら表と裏で態度の違う禅さんのことはバレてしまうし、私と彼が一緒に住んでいることも知られてしまう。そうなれば、禅さんの印象は会社の印象ごとガクンと落ちてしまうだろう。
甘い話には裏がある。私は本当に馬鹿だった。
『君を利用してすまないが、分かってくれたかな?』
――どうして、私なのか……。どうして、私が禅さんと離れることを望むのだろうか……。
疑問には思うけれど、もう私に選択肢は残っていなかった。禅さんの裏の顔がバレないのなら、それで良い。それが、良い。
「……分かりました。彼から離れます」
静かに私はそう告げた。
『ありがとう。音声は削除すると約束するよ。それと君にはあとで良い仕事を紹介しよう』
岩倉さんは電話の向こう側でご機嫌な様子だった。
「失礼します」
電話を切ったあと、泣きそうになる自分を必死に押さえた。
禅さんは実家から帰ってくるときも車を何台か地下駐車場で乗り換えるほど、普段から警戒している。だから、岩倉さんが最初から自分の秘密を狙っていると気が付いていたのかもしれない。必死に家族を守ろうとしていたのに、私が危険に晒した。私も家族を守ろうとして……。
「独り言か?」
バスルームから出てきた禅さんが私に言った。少しだけ声が雑音として聞こえていたらしい。
「妹子と話していただけですよ。私の話し相手は妹子しか居ないので」
ソファに転がって尻尾をパタンパタンと小さく動かしている妹子を私はそっと撫でた。いつもそこに居て、変わらずに私の話を聞いてくれる。この子とも今日でお別れだ。
――元気でね。
「そうか。――来い、寝るぞ?」
いつもと変わらぬ声音と表情で寝室の扉を開けて、禅さんが中に入っていく。
「禅さん、お願いがあるんですが」
彼の後を追って寝室に入り、扉の前に立ったまま私は話を持ち出した。
「なんだ?」
寝室のカーテンを引きながら禅さんが訝しげな表情を向けてくる。とても言い難い。きっと、彼は怒る。でも、言わなければならない。
「私に……、お金を800万ほど……貸していただけませんか……?」
緊張から言葉を上手く音に出来なかった。でも、微かに聞こえただろう。
「なんだと?」
今が夜だなんて分からないほどに明るい寝室で、禅さんが私に冷たい瞳を向けた。
「……お金を800万ほど貸していただきたいんです」
とても言い辛くて、二回目でも、もそもそと言ってしまう。でも、禅さんは今度こそ私の言葉を聞き取って、とても怖い顔をした。
「出て行け」
「理由があるんです!」
嫌われる決心はした。でも、彼から初めて嫌悪感を向けられて気持ちが揺らいだ。最初から説明をすれば良かった、と思ったけれど、今さらで、禅さんの怒りは収まらない。
「出て行け! お前も他の奴らと同じだったんだな!」
「禅さ……っ、――……分かりました……」
話なんて通用しない。悪いのは私だ。これで良いんだ。私はあんなにも自由になることを望んでいたではないか。やっと、これで自由になれる。
「お世話になりました」
何も持つ物は無く、私は静かに禅さんとお別れをした。
――岩倉さん、聞いていますか? 私は今、禅さんとお別れをしました。
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